『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第46章 群青 −2−
その男に初めて会ったのは、もう20年以上も前の事だ。
そして最後に会ったのは、あの夜。
――湧き上がってくる、絶望という狂気。
グレンは目を沈ませる。駄目だ。剣を退け。
この衝動のままに飛び込む気にはなれずとも。
「ご無沙汰しております、グレン殿」
ニヤリと笑った、その顔。
笑いで返す義理もない。
「カーネル、なぜここにいる」
友を殺した。
あの夜の光景が脳裏に蘇る。
―― 一報を受けた時、グレンは城内にいた。
警備の兵士の何人かが殺されている、そう聞き、急ぎ主君の元へと走ったが。
たどり着いた時、すべてはもう終わっていた。
王は倒れ、その傍らに立つ男は、グレンに一瞥 だけくれて走り去った。
アイザック・レン・カーネルだった。
追いかけなければいけなかった。しかし、それより先にグレンは友の元へ走った。
事切れる直前だった。友が最後に唱えた言葉は、最愛の娘の名だった。
笑っていた。
武人として、主君として、ずっとここまで共に来た。この身を生涯捧げると、命に代えても守ると誓っていたその人の。
最期に、間に合わなかった事。
「ひどい面構えになったな」
波打たぬ湖畔、風のない静けさの森、朝日が昇る前に見せる空の沈黙、それこそが剣の神髄。本当に敵 えなければならない相手は、己の感情一切合財。オヴェリアにもそう言って聞かせてきたけれども。
(逃せぬ)
腕の筋肉に俄かに力がこもる。ここで絶つ。
「グレン殿は相変わらずのご様子だ」
「……そうでもない。歳には勝てぬ」
わかってる、これは絶対たる責務。
友を死に至らしめた責任の一端。グレンは歯噛みする。
アイザック・レン・カーネルの狂気に気づいていたのに。その片鱗を見ていたのに。
「昔のようには体が動かん」
サイラスに無言で告げる。他の者たちを頼むと。
「武大臣にして、この国最強の剣豪グレン・スコール」
アイザックが高らかに笑った。
「カーネル……よく俺の前に顔を出した」
その言葉と同時に、瞬間的にグレンは地面を蹴った。
間合いが詰まるまでの時間は一瞬。並の剣士ならば、剣を構える猶予もない。
半身を捻って反動で下から斜めに一閃させる。そこに、光の軌跡がコンマの単位で浮かび上がる。
だがそれを、アイザックは剣で受け止める。
受けられたその感触に、グレンは一瞬ハッとする。だがそれを微塵も出さずにもう一手連続で右脚を軸にして踏み込む。
それも、ドウという深い息と共に受け止められる。
グレンは一歩後ろへ退く。
「……」
これは、とその目尻にしわが寄る。
踏み込みも速度も、全部真っ向受け止められて。
まるで沈み込むような感覚。
「さすがはグレン殿の剣だ」
飄々と言い放つその顔には、まだ笑みがこびりついている。
「……なぜだ、アイザック」
その顔に、思わずグレンはそう口走った。
――こんな顔する男ではなかった。
確かに狂気はあった。彼が内に秘めていた感情を知っていた、だが、
「なぜ?」
アイザックはどこか彼方を見た。その顔は、20年来の知り合いのようで、まったく見知らぬ別人のようでもあった。
「あの男は、姉上を奪った」
「違う、リルカ姫は」
「グレン殿、私にとってのなぜは、あなたこそだ」
「――」
「あなたこそ、あの男に奪われたはず」
――すべてを。
「なのになぜ忠誠を誓うのか、生涯を捧げるなどと」
改め重なった目には悲しみがあり、そして次に、怒りが芽生えた。
「かつて私があなたに申した事……まだまだ遅くはない」
今こそ、そう言って手を差し出した男に。
虫唾以外、何が走ろうか。
「……黙れ、アイザック」
グレンの衝動は、
「我が最大の罪は……あの時、お前を処断しなかった事だ」
――世迷 い言 として片づけた。アイザック・レン・カーネルがかつて言った囁き。その場で殴って諌めて、それで済ませてしまった。
だがもしあの時事を慎重に受け止めて、もっと厳しい処断を下していたら?
例えそれが、王族につながる血縁だったとしても。王妃であるローゼン・リルカ・ハーランドの弟であろうとも。
あの時、この男を放置した事が。変わってくれと願いを込めてしまった事が。
――共にヴァロックの王政を覆しましょう。
グレンの、最大の罪か。
「アイザック・レン・カーネル」
剣を向ける。スッとまっすぐに、その線は炎の中で一層美しい。
「この場で潔く自決せよ」
せめてもの、武人としての道と情 。
「さもなくば、逆賊として俺がこの場で斬る」
「ハハハ」
アイザックは剣を一度振り、そして構える。
「お情けはありがたく頂戴いたします」
が、
「まだ死ねぬ。この国を滅ぼさねば」
「何故だ、アイザック?」
2人が走り出す。剣が交差する。その音は鈴を打ち鳴らすような音であるはずがない。
ガンとぶつかる、意志と意志。
「お前の狙いがウィル様だというのなら、もう、果たしたであろう?」
せめぎ合う間近、剣に力を込めながらグレンは問う。
「まだだ」
風のように舞いながら、アイザックは答えた。
「まだ生きている」
「ウィル様は亡くなられた」
上から打ち下ろす。それをアイザックは容易 く受け止める。
確かにアイザックの剣は、以前からグレンも評価していた。並の技量ではなかった。御前試合の上位で競った事もあった。
だがあの時こんな事は感じなかった。
深く沈む、吸い込まれるような剣。
打っても打っても弾くのでもかわすのでもなく、そこにある感覚はまるで、圧倒的に巨大な物に受け止められるような感触。
そしてその奥底で何かが待っている。
さっと剣を退き、間合いを離れる。動きを緩めたつもりはなかった。しかしすぐ横にアイザックの腕があった。
宙を空の手が横ぎった。何かを掴もうとするかのような仕草だった。何事かと、垣間見たアイザックの顔に、グレンは一瞬目を見開いた。
目の奥に、闇が見えた。
嫌な予感が全身を走った。グレンは身を捩 り最大の速さでもって剣を打ち込み、アイザックを押し戻した。
「お前、」
問わなければならない事が、幾つも。
「兵士を率いているのは、お前か?」
奇妙な騎馬兵。
何の躊躇もなく炎の中に突っ込んでくる兵士たち。怪我をしようが、立ち向かってくる。剣を突き立てても動ぜぬ、死を前にした者が見せる表情、感情の揺らぎもない。
――同じ目を、今、見た。
アイザックがバジリスタに下ったという話は、オヴェリアから聞いた。悲しそうに話していた。
オヴェリアはアイザックをとても慕っていた。幼いオヴェリアの手を引くアイザックの姿をグレンも何度も目にした。
「この兵士は何だ? 薬でも打っているのか?」
バジリスタは撰 と交易がある。そしてその国は人の心に作用する薬を秘密裏に国外に流出させている。先刻起こったエンドリアでの惨事の引き金も、その薬によるものだという報告は受けている。
アイザックは答えなかった。ただ代わりに、目を細めた。
その顔は、グレンにはなぜか悲しげに見えた。
しかしそれも一瞬の事だった。一つ瞬きをしたアイザックは、その口元を傾けた。
「……愚かしき、人の域」
「何?」
「あなた程の方でも、たどり着く事できなかった場所」
訝しく、グレンは眉間にしわを寄せる。
「どこまでも続く、無限の砂海。……そこにあるのは、ただ真っ白な世界」
何を言っているのかと、
「他にはもう何もない。……グレン殿。もうないのです。私の中には苦悩も怒りも、本当はもうない。白であり、黒である。単一の世界。……されどただ一つ、歪む物がある。その歪みが脳を擦って私に訴える。この感触は疼きに似ている……その疼きが叫ぶのです。この国を滅ぼせと」
この男は、何を、
「まだこの国には、ヴァロックの意志が残っている。あの男が残した、」
「――それは、」
何を言っているのか、グレンにはわからずとも。
ただ一つ、響いた言葉。
「オヴェリア様か」
「……」
「そなた、オヴェリア様を殺すというか」
アイザックが文字通り固まった。瞬きも忘れたその姿は、まるで蝋人形のようだった。
「オヴェリア様はこの国最後の希望」
光だ、とグレンは思った。
「……違う、」
「ウィル様だけでは足りぬか」
「……」
「オヴェリア様の命も欲するか、アイザック」
「…………」
「あの方は……リルカ様の娘だぞ?」
お前が愛した、
「剣を向けるか?」
黙り込んだアイザックに、微かにグレンは剣を握る手を緩めた。
――脳裏に過る、初めて会った日の事。
純粋な笑みだった。
あの時言われた言葉、忘れもしない。
(そして次に会った時は、)
もう、あの目は――。
「オヴェリアは、」
燻 った感情が小さな衝動を伴って飛び出すように。
「……姉上の娘だ」
そして、
「本当は、あなたの子だ」
受けたのは衝撃と言うよりは。
……残響。
痛みが、ねじ曲がって胸に響いて行く。
「本当は……あなたの子としてこの世に」
「何を申すか」
吐き捨てる、言葉。
「オヴェリア様は、ウィル様とリルカ様の子」
「ヴァロック・ウィル・ハーランド」
歪んでいくその顔。その顔はあまりにも禍々しく。
「姉上の運命を捻じ曲げた男……姉上からすべてを奪い、そして最後にはその命を奪った……」
「何を、」
「そして、あなたから、姉上を奪った。……あなたこそが、本来、姉上と結ばれるはずだったのに――」
――初めて出会ったあの時。アイザックはグレンに言った。
姉上をよろしくお願いいたします。まだあどけない少年は、だが嬉々とした顔で笑って。
義兄上 と、自分の事をそう呼んだ。
――グレン様。
彼女の声。彼女の笑顔。姿。
手を差し伸べてももう届かない。
生涯。
……守ると誓ったのに。
失った時はもう二度と、戻らない。