『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第46章 群青 −3−
時として運命は、残酷な形で道を紡ぐ。
「あんな事がなければ……あの剣さえ、持つ事なければ姉上はッ……」
呪縛か、とグレンは思った。目の前にいる男に絡みついているのは深い深い呪縛。
そして同時に彼は、男の姿に自分の姿をも重ねる。
――道はどこから始まった? 運命はどこから回り始めた?
何が元凶で、何が宿命なのか。
もうわからない。……すべてを辿ろうとするには、遠くまで来すぎてしまった。
「白薔薇の剣、あんな物に選ばれたが故 に姉上は」
グレンの剣は、支給の剣よりやや細い。幾多の剣と出会い、共に戦いながらたどり着いた、彼の手に最もなじんだのがこの形状。
刀身を横に据えれば一本の直線となる。光を浴びれば、光線が貫くように一文字を描く。
その光は腕に至り、体の中心、全身、そして瞳に宿る。
そして今その目には様々な光景が断片的に過っていた。
「姉は剣など持った事もなかったのだぞ? 何故だ、何故、剣に触れる事ができたというだけでその責を負わねばならない? 白薔薇の騎士とはなんだ? 何故あの姉上が戦場に立たなければならなかった? グレン殿、白薔薇の剣とは何だ? 何故姉上が」
「……」
「そんなもの、ヴァロックが一人で背負えばよかっただけの事だ。何故姉上を巻き込む必要があった? あいつだけの問題だ。剣に選ばれた? 選ばれなかった? ……この国はおかしい。おかしい」
――何故ですか、義兄上!!
聞こえてくる、少年の叫び声。
否、もうあの時分アイザックは少年ではなかった。幼子だと割り切れるような歳ではない。分別もついている、まして彼はカーネルの後継ぎだ。
しかし内に潜む激情が彼を駆り立てた。あの時アイザックは、グレンに掴みかかった。義兄上、義兄上と叫んで。
そしてグレンは、その腕に抵抗する事ができなかった。
答えられなかった、少年が問うてくる疑問の、何一つに対して。
「そして果ては、ヴァロックに殺された」
「違う」
グレンは首を横に振った。
「それは、違う。リルカ様は胸の病で亡くなられた。何度も申したはずだ。ウィル様は関係ない」
「持病の胸の病=v
――膨れ上がっていく。炎が委縮している。
「姉上が胸を患い始めたのは、ハーランドに嫁いでからだ」
「――」
「姉上はヴァロックに殺された」
「違うと申している」
「ヴァロック・ウィル・ハーランド……この国の在り方、」
そして、
「白薔薇の剣」
「――」
「呪われたこの国のすべてによって、姉上は、姉上は」
「アイザック、」
「――全部壊してやる」
嗚呼、とグレンは息を吐いた。
「姉上を奪ったもの全部、姉上を壊したもの全部。姉上を存在を許さなかったものすべて。運命も宿命も何もかも、この世における万物の定理」
その顔は、
「今度は俺が、この手で」
まるで悪魔のようだと、グレンは思った。
「無の境地へ」
――本当の悪魔は、絶望と破滅を、無表情で説く。
これは本当にアイザック・レン・カーネルだろうか?
(どちらにせよ)
もう野放しにはできない。
本当はもっと早くにやらなければならなかったのだ。幾度もその機会はあったのに。
しかし、動けなかった理由は。
――義兄上。
「ウィル様の仇、取らせてもらう」
剣を構える。
それをアイザックは黙って見ている。
激情も何もない無表情。
目の奥にある闇。
一瞬グレンは思った。幾多の戦い、戦場も駆けた。奪った命の数は覚えていない。この国で最強とまで呼ばれた剣士が。
――ゾクリと。
脚は正直に、恐怖を感じたが。
走り出した。
茫然としていれば残像も捉えられぬ。速さとはこういうものである。
だがアイザックを前にこの速さは、まだ足りないのだ。
完全にその目はグレンを捉えて。
渾身の一刀を、深く受け止める。
剣が震えた。その震えは、相棒の囁きのようだった。
恐らくその囁きと同じ事をグレンは感じた。接近の内で見たアイザックの顔。
(誰だ、)
無表情。
さっきまでの醜い程の怒りの表情もない。
くぐもって、表情はないのに。
しかし、目の奥の方で笑っているように見える。
何が? その笑みは本当にアイザックの物なのか?
確実に首を跳ねるために放った横の一閃。
それをアイザックは剣ではなく身を捩 って避けた。
グレンの背中に悪寒が走った。
――視界の隅に、アイザックの腕が過った。
「何故」
不意に誰が言った?
「助けてくれななかった?」
意識を取られる。剣速が落ちた。
「姉上を、ヴァロックから」
攻めはグレンが一方的。
アイザックの剣はまだ、受けるだけしか、
「姉上は、待ってたのに」
「黙れ」
――求める事と、叶う事。
「姉上が愛していたのは、あなただったのに」
「違う」
脚が、踏み込みを躊躇 った。
たった一瞬の、無意識の反応だった。
そういうものが時として命を左右する事はわかっていたのに。
剣が甘い、速さも角度も中途半端に。でも止められない――放たれたその一閃を。
アイザックは受け止めて。
その上で弾いて。
反動を利用して。
左足が鳴くように強く前に出たかと思うと。
風のような閃光。
アイザックの剣が放った鈍い光が目に届くより早く。
――間に合わない。
受けたのは半分だけ。もう半分は、胴に入った。
鎧を身にまとっている。それは体に入る場所ではない。
なのに。
あ、と思った瞬間にはもう、グレンの身体は宙を舞っていた。
鎧が砕けたのが感触で分かった。
こみ上げてくる何かにむせれば、そのまま血が噴き出た。
地面に叩きつけられ、衝動と痛みを抑えて自分の身体を見ると。
何だこれは? 完全に鎧が。
そして視線を戻すとアイザックの剣――否、剣じゃない。彼は剣を持っていない。
剣だと思った光は、彼の腕から放たれた物。
右腕。
「あなたは姉を救ってくれなかった……ヴァロックと一緒になって、戦場へ連れ出した。奴と同罪だ」
――視界の隅で何かの気配を感じた。
瓦礫と炎に隠れて様子を伺っている。ハーランドの兵士だ。
アイザックの背後にサイラスの姿を見たその瞬間。
「駄目だ、サイラス」
グレンの呟きと。
「かかれ」
サイラスの声は同時だった。
いつの間にか取り囲んでいた何人もの兵士が、一斉にアイザック目がけて斬りかかった。
雄叫びが伸し掛かる。幾重もの槍と剣が一人の男目がけて突き出されるが。
――全部に貫かれた上で。
無表情だった男が、笑った。
それを見た兵士の何人かが剣を腕から離した。
だが最後、サイラスが、アイザックの首を跳ねた。
巨漢の男が放つ剣だ。本来ならば首は完全に跳ね飛ぶ。しかし皮一枚残った。
張り付いた笑顔が。
二度と瞬かないはずの目が。
――曲線を描いてさらに笑って。
血も吹かない。
跳ね上がった首が、ゆっくりと元に戻っていく。
兵士たちが悲鳴を上げた。
その場に固まり動けなくなった者から。
――剣に貫かれたままのアイザックが、そっと手を差し出し、その頭を撫ぜた。
途端に、兵士の頭は砕け散った。
これは本当に現実なのかと疑いたくなるような光景。
アイザックの顔には慈愛にも似た笑みが張り付いている。
一人ずつ、撫ぜて行く。
そしてそこから弾け飛ぶ。
こんな死を、グレンは知らない。
「逃げろ」
人間の所業じゃない。
――薬じゃない、とグレンの中で警笛が鳴る。
撰 に蔓延する人の心に作用する薬……そんな物ではない。今目の前の現実は。
魔術。
これが、暗黒魔術か。
「カーネル」
一層の雄叫びがその場に響いた。サイラスだ。
首を跳ねるか、胴体を跳ねるか、その剣が巨大な線を描いて目の前の悪魔へ吸い込まれていく。
「サイラスッ」
右手が受け止めた。サイラスの剣を。
簡単に握った。そして手の中で砕いた。
ポロポロと風に乗るほどの細かい粒子になって。
「おやすみ」
グレンが手を伸ばしたその時にはもう。
サイラスの腹に、悪魔は拳を叩き入れていた。
サイラスの最期の顔は、驚愕。
次には、もう、表情も残らない。形も全部。
サイラスであった物は。
木端微塵に。
「――」
グレンの感情も、一緒に、散った。
「この程度か」
アイザックの呟きは、耳に届かなかった。
「人を捨てたのか、アイザック」
その問いにアイザックは微かに不愉快そうに眉を寄せた。
「人を超えたのです」
起き上がろうとするグレンの意思に反して、体が悲鳴を上げる。衝撃は内臓まで届いたかもしれない、だがまだ腕に力は入る。
波打たぬ湖畔、風のない静けさの森、朝日が昇る前に見せる空の沈黙――どうでもいい。
脚がまだ体を支える。
剣を握る指があるなら、まっすぐ向ける。
ここが最後の場所かと、グレンは一度目を閉じた。
瞼の裏は、赤かった。
そして、熱かった。
炎じゃない、感情が。こみ上げてくるものが、体全体が、指の先、髪の1本1本、こぼれる息も全部、何もかもが。
グレンの鼓動を伴って。
今、逃げるように解き放たれていく。
「――」
地面を蹴れば、そこに震動が伴う。
細身の剣が残像を残してただ光る。
――昨夜 は何をしていただろう? 嗚呼、そうだ姫様を想って。
感じ入るような衝突音。剣と剣がぶつかり合う。
残響はどこに行く?
――サイラスすまぬ。
連撃に連撃、ここまでの最速で打ち込み、だが全部止められている。
せめて一矢と願う想いが。
一層駆り立て、速さを増していく。
遠く遠くどこまでも、その速さはいつしかすべてを越えて。
神が許したかと、グレンは思った。今をもってして体が動き、剣が舞い、
――ウィル様。
この瞬間、宿るのは一つの境地だけ。
アイザックを討つ。
胸を貫け、眼光を貫け、存在そのものを、
この瞬間のために、自分は剣を持ち続けてきたのかと、グレンは思った。
死に際のこの瞬間、この時のためだけに。
往生際悪く、剣を捨てなかったのか。
半歩譲り、後ろに引き下げた剣を、
力を溜めて溜めて。
目に宿す、渾身の光。
次の一手が最後になる。
ここまで生きたすべての人生。
すべての想い、すべての意志を。
叩き、込める。
そこには静寂などない。
燃やせと、誰かが願った、
唸るような一太刀だった。
「――――ッ!!!!!」
受けた剣が、瞬間砕けた。
アイザックの顔に驚愕が過る。
そのまま顔面を両断せんと踏み込んだが。
腹に受けた衝撃に、体が吹き飛ぶ。
サイラスの最期が脳裏に浮かぶ。だがグレンは再び、地に叩きつけられた。
もう痛みは通り越している。
今度はもう、立ち上がろうとしても体が動かない。
(嗚呼)
これが最後か、うっすら開けていた目を閉じると。
瞼の裏は、群青だった。
空よりも青い世界。
昔誰かに聞いた事がある。人が最後に見るのは群青だと。
そこにあるのは光でもなければ闇でもない。ただただ、広がるその色が。
「ハーランドの英傑、グレン・スコール」
満たして、終わらせていく。
「この場にて眠れ」
涙してもいいだろうかと、グレンは思った。
(姫)
誰を呼んだのか、自分でもわからない。
ただ、どちらだったとしても、グレンにとっては同じに思えた。
同じ魂。
まっすぐで、純粋な。
「逝ね」
この色と同じような瞳の。
「グレン――ッ!!!」
剣は殺戮の道具。決して、美しい音を奏でる物ではない。
しかし、次の瞬間響いた音は確かに美しかった。
引き戻されるようにグレンは薄目を開けた。
背が見えた。
自分を庇う、その背は小さい。
だが確固たる意志と。
――その魂が。
「叔父上――――」
「オヴェリア……」
グレンは瞬きをした。
瞼の裏にあの群青は、もう、どこにもなかった。