『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

目次    次へ

 第47章  これは定めか?

しおりを挟む

 すべてを消してと、オヴェリアは願った。
 想い出も、そこにある想いも、そして出会った事も。
 ――何一つなかったら、完全に無としてここで向き合えるから。
 純粋なまでの怒りの衝動に、この身を預ける事ができるのに、と。

  47



「叔父上……」
 白薔薇の剣を真っ向向ける。
 一重ひとえの直線。
 視線が捉えるのは、その男のみ。
 炎も熱気も煙も、意識の中に入ってこない。世界にはただ、沈黙のみが落ちている。
 ――彼女たちを導いたのは、皮肉にもこの炎だった。
 カーキッドたちと別れ、ハーランドの本陣を目指したオヴェリアとマルコは、やがて空に立ち上るこの炎を見た。
 それがなかったら、果たしてたどり着けたかわからなかった。夜の闇の中を走る事は、方角さえ危うい状態だった。
 ……しかし最初はまさかと思った。まさかハーランドの陣営に火がかけられるなど。
「火を点けたのは、」
 叔父上ですか?
 そう問おうとしてオヴェリアは唾を飲み込む。否違う、本当に問いたいのはそれではない。
 そして本当の彼女の感情は、何を問う問わぬをも踏み越えて。
 ――もっと奥の方にある、湧き上がる事をも許さなれないような感情。
「姫様、」
 途切れ途切れに聞こえた声にオヴェリアは我に還る。
「グレン、無事ですか?」
 振り向く事はできない。
「姫……お逃げください、」
「マルコ、グレンをお願い」
 お願いともう一度心の中で切実に願って。
 オヴェリアは完全にアイザックに体を向ける。
 ――誰か、と心の内の声が唱えた。
「叔父上」
 アイザックは何も答えず、ただじっとオヴェリアを見ていた。
 痩せた、と思った。最後に見た時よりももっと。
 炎が見せる光と影のせいか、頬にはっきりとした陰が見えた。
 叔父はこんな顔をしていただろうか? オヴェリアにはわからなかった。
 ずっと、憧れていた人。
 母の弟。幼い頃から思い続けたその人が、今目の前にいるのに。会いたいと願った事もあったのに。会えなかった事で涙する夜もあったのに。
 なのに今は。
(会いたくなかった)
 フォルストで消えた叔父の足取りは気になっていた。
 でも、どこか考えたくないと思う自分もいた。
 その答えは、わからなかった。
 ただ……漠然と、怖かった。
 ギル・ティモが言った。彼はバジリスタにいると。
 そして次にその名を聞いたのは。
「……アイザック・レン・カーネル」
 2つの想いが交差する。聞きたくないという感情と、聞かねばならないという感情。
 言葉も交わしたくない、目を合わせる事もしたくない、向き合う事も全部全部。
 ――溢れそうな感情は悲しみに似ているが違う、怒りにも似ているが違う。
「我が父にしてハーランド王、ヴァロック・ウィル・ハーランドを」
 声が震える。右手で握る剣、左の肩は落馬の痛みが増してきている。
 しかし、そんな痛みよりも。
「王城に忍び込み、父を……」
 胸が痛い。
「父を殺したのは、そなたか」
「……」
 答えよと、叫ぶ事せず。
 アイザックもまた、答える事せず。
 ただ2人の間にあったのは沈黙と、互いの目。
 視線だけが空気を介して、互いの立場と、痛みと、絶望を。
 否定しない事が答え。肯定がないのも答え。
(なぜですか、叔父上)
 熱気が揺らいで見せる陽炎の中にオヴェリアは、楽しかったいつかの己の姿を見た。
 ――時は残酷だが優しいとは、誰が言った言葉だっただろうか?
 人はまっすぐ前を見据えて生きていると信じてきた。ならばアイザックが見た道も、やはり己が信じるまっすぐな道か?
「お答えください、叔父上」
 もう答えは出ていた。でもオヴェリアは願った。
 叔父の声を。
 言葉を。
 何でもいいから、と。
 ……かつて信じた、想った、その声で紡いだ言葉を。
「叔父上」
 だがアイザックは何も言わなかった。そして切っ先をオヴェリアに向けた。
 嗚呼と、嘆く以外に。
 ――1歩、1歩と近づき来るその姿を。
「叔父上、」
「……」
「叔父上―――――――」
 もう、走り出すしかない。
 もう、剣を合わせるしかない。
 こんな悲しい衝動はない。剣が重なるこの音が、こんなに切なく響いた事は。
 ――父を殺した。
 オヴェリアは叫びながら打ち込んだ。
 それをアイザックは真正面に受け止める。
 目の色は青だ。2人が持つ根幹は同じだったはず。
 叫び出したい痛みと、泣きたいほどの怒り。
 肩が痛いとか動かないとか言ってられない。
 剣の軌道、型もどうでもいい。
 ただ振って。
 打って。
 鳴って。
 叫んで。
「叔父上――」
 アイザックは何も答えない。
 踏み込む足が、宙を舞いたがる。
 どうでもいい衝動ばかりが胸の奥に渦巻いて。
 駆けて、と何かに対してオヴェリアは願う。
「どうして、父上を」
「――」
「何で、父を」
「――」
「答えて――答えてください、叔父上――!!」
 その双眸と剣だけが物を言う。
 激しくも、儚い剣と剣の縁えにし。
 誰がいつ決めた? 誰が願った? こんな未来を。
 幼い頃一緒に笑った叔父。花がきれいだと、空を飛ぶ鳥にはしゃぎ、雨上がりの水滴で遊んで時を過ごした事もあった。
 暖かくて、優しくて、大切だったあの日の想い出が。
 ――全部、刃となって襲い来る。
 視線は重なる。されど2人の心は二度と重ならないのだと。
 歯を食いしばって受け止めた一つの切っ先が、オヴェリアの髪をふわりと舞い上げた。
 その姿にアイザックは一瞬目を細めた。
 その瞬間オヴェリアが一歩を詰める。押し勝負で男を相手にできるわけがないとはわかっていても。
 わかっていても――それでも。
「ギル・ティモに」
 食われてしまったのですか?
 闇に飲み込まれてしまったのですか?
 叔父の目の奥の底が見たくて。
 闇に光る青の瞳。
 ……剣を交差させたまま、2人はしばし互いの目を見つめ合った。
 やがてその間を弾いたのはアイザックの方だった。
 オヴェリアは反動で転げそうになったが、地面に煙を立ててこらえ、剣を構えた。
 白の薔薇が刻印された剣。
 ここには聖母の力が宿っていると言われてきた。
 ハーランド歴代王が継承してきた1本の楔。
「……」
 ――白薔薇の剣が、ここにある。
「―― 一つの、」
 やがて。
 アイザックは一つの瞬きをもする事なく、唐突に。
「定めだ」
 ――この世には、どうする事もできないものがある。定めというものが確かにある。
 今ここで2人がこんな形で再会したのも。
 ならばこの先の未来は?
「叔父上、投降してください」
 オヴェリアの最後の願いだった。
「投降して…………」
「ハーランドを滅ぼす」
「何故に」
 かつて会った時も、彼はそう言っていた。
 やはり届かないのか? やはり彼は――オヴェリアがグッと唇を噛みしめた時。
「――石は、まだ持っているか?」
 え、とオヴェリアは一瞬目を見開いた。
 するとアイザックは笑った。何故か優しく。
 その顔は、まるで昔の彼のようだった。
 次の瞬間、アイザックはその身を翻した。
 黒い背中を見た。
 一瞬彼は微かに振り返り、視線をオヴェリアに流した。
 口元が曲線を描いていたように見えたのは気のせいだったかもしれない。
 次に気づいた時には、彼の姿は炎の中にあった。
 まとうマントが炎の中に踊っているように見えた。
 その名を呼ぶより早く、その暇いとまも与えず。
 ……アイザック・レン・カーネルは消えて行った。

  ◇

「グレン」
 アイザックが姿を消して、オヴェリアはすぐにグレンの元へ駆け寄った。
「姫」
 マルコが必死の形相で回復の魔術を施している。まだまだデュランのようにはいかないが、先ほどよりはずっとグレンの顔色は良くなっていた。
「姫様……ご無事で……」
 オヴェリアは首を思い切り首を横に振って、グレンの手を取った。
「私は大丈夫」
「……申し訳ございません、我が軍が」
 オヴェリアは一層首を振り、強くその手を握りしめた。
 ――まだ敵兵が残っている。視界の端では、味方の兵士が賢明に戦っている。
「マルコ、グレンをお願い」
「姫様……!」
「助けに行かねば」
 立ち上がるその姿。
 炎に染まるその横顔に、グレンは言葉を失った。
 この場にそぐわぬ事をグレンは思った。
 ――間髪入れず、オヴェリアは走り出す。
 まるで、立ち止まるのを嫌うように。
 風になりたいと願っているかのように。



 ――バジリスタの兵士が姿を消すまでに、時間はかからなかった。
 オヴェリアの力も大きかったが、多くは、アイザックが消えたのと同時に後を追うように散って行った。
 残ったのは総崩れしたハーランドの軍。
 炎はマルコの魔術でほどなく消し止めたが。
 失った命は、戻る事はない。
 そして、夜明け直後。
 オヴェリアの願いにより、懸命な捜索の結果カーキッドとデュランも発見される。
 2人共無事の様子に、オヴェリアは心底安堵した。
「オヴェリア、無事か!!?」
 カーキッドの声を聞いて、一つ笑みを見せたオヴェリアは、そのまま地面に崩れ落ちた。
 意識を失う直前に、オヴェリアは、カーキッドの腕の中を思い出した。
 暖かい、あの中で眠りたいと。……少し、そう思った。

しおりを挟む

 

目次    次へ