『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第48章 約束 −1−
◇
オヴェリアが意識を取り戻したのは、その日の昼過ぎであった。
気づいた時、彼女はテントの中にいた。
一瞬自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかわからなかった。
周りには誰もいない。漏れた光に導かれるようにテントの外に這い出す。
「姫様! 大丈夫ですか?」
外に出ると、すぐにマルコが見つけて駆けてきた。オヴェリアは微かに笑ったが、日の光が眩しすぎて目を開くのが少し億劫に思えた。
見慣れない光景。自分が意識を失った事に気が付いた。覚えているのはカーキッドとデュランの姿を見た所まで。
「ごめんなさい……私、」
「僕もさっき起きた所です。まだ眠いです……」
眠そうに目を擦る少年の姿に、オヴェリアは安堵して微笑む。
思えばこの数日まともに眠っていなかった。その中で様々な事が起こった。
「姫様、お目覚めになられましたか」
向こうから兵士の間を抜けてデュランが駆けてくる。彼の無事の姿に、またオヴェリアは安堵をする。
「姫様が眠っていらっしゃる間に少し場所を変えました。元の位置より北へ。この先すぐの所に妹川がございます」
「そうですか……」
見渡しても焼け跡がないわけである。あの夜の事は夢だったのではないかと思えるほどだった。
「グレンは? グレンは大丈夫ですか?」
聞くのが怖いと思った、それが声になって現れた。
だがその不安をデュランは笑顔で拭い去った。
「大丈夫。ご無事です」
「無事……」
「砕けた鎧の状態からして、かなりの深手を負われた様子。だが処置が早かった。マルコのお蔭です」
オヴェリアはマルコを向き直る。少年の目がクルクルと泳いだ。
「あ、いえ、そんな」
そして赤面したマルコに、オヴェリアは深く深く頭を下げた。
「ありがとう……」
「ひ、姫様……」
――グレンまで、死んでしまっていたら。もしまた、大事な誰かが取り返しのつかない事になってしまったら。……そう考え、オヴェリアは唇を噛みしめる。
「会われますか? グレン様もお待ちでしょう」
「……ええ」
少しこぼれてしまった涙をぬぐって、オヴェリアは顔を上げた。
気づけば兵士が集まってきていた。オヴェリアが彼らに気づくと、兵士たちは踵を鳴らし敬礼をした。
不思議な心持ちだった。
オヴェリアは頭を垂れた。そしてもう一度、今度は全員に向かって言った。
「ありがとう」
――ここに生きていてくれて。
涙は流さないように必死でこらえた。
◇
「グレン」
「姫様」
テントの中にはグレンと、傍らにカーキッドが立っていた。
そのテントは作戦本部として使われていた物である。オヴェリア達が入っても充分な広さがあった。
グレンは全身包帯にくるまれていたが半身を起こしていた。中は外ほど明るくないが、ランプの光でもその顔に精気が宿っているのは見て取れた。
「良かった……」
思わず息を漏らし、オヴェリアはカーキッドと視線を合わせる。男は無言で頷いた。カーキッドが無事であった事にも安堵する。
そこで初めて落馬の時の肩の痛みがない事に気づく。眠っている間にデュランかマルコが治療してくれたのだろう。礼を言おうとしたが、それより先にグレンが口を開いた。
「姫様、此度こたびの事はすべて私の詰めの甘さが招いた事。責を負う所存でございます」
「何を言っているのですか」
オヴェリアは首を横に振る。
「グレンのせいではありません。こんな事、誰に予想ができましょう」
「しかし」
「状況をお聞かせください。夜襲を掛けられたのですね、……カーネルに」
無意識にオヴェリアの表情に影が落ちる。グレンは目を閉じ、やがて深く頷いた。
「兵士の半数を失いました」
「カーネルは火を放って軍勢を……、バジリスタ軍を率いていたのはカーネルだったと」
――亡命してバジリスタに寝返った……。
ハーランドを滅ぼすと言っていた彼の言葉を思い出す。
「バジリスタの兵士たちは、炎の中を恐れる事もなく飛び込んできたそうです」
グレンの話を助けるようにデュランが言った。
「そしてアイザック・レン・カーネルは……斬っても死ななかったと」
オヴェリアの背中に冷たい物が走った。
「あれが暗黒の魔術なのか」
茫然とグレンは言う。
「あのような恐ろしき事がこの世に存在するとは……」
「襲ってきたバジリスタの兵士たちも、お聞きした様子からして尋常ではあり得ぬでしょう」
発狂しなかったグレンの精神こそが強靭なのだ。普通ならば、あのような光景を前にして耐えられるものではない。
「吐き気がする」
そしてあれこそがオヴェリア達が旅の中で直面してきた光景。
改めてグレンは思った。何という罪深き事を我らはしてしまったのかと。
(またしても)
何ら戦いとは関係のない少女に、地獄を見せるような事をしたのかと。
「……バジリスタの兵士……」
だが対してオヴェリアは別の事を考えていた。
「一度整理した方がよろしいですな」
デュランが言った。
「各部隊に伝令は飛ばしました。が、ここまでに起こった事を改めてまとめましょう」
デュランが改めてハーランドの陣営を抜けてからの話をする。
国境へ向かった事、そこでバジリスタ軍が国境線を越えて向かってきた事。
進軍は阻止できなかった。光を放つ異形の化物を倒し。
――竜と再会した事。
「ゴルディアの竜か」
デュランが頷く。
「逃がしました。申し訳ございません」
カーキッドは黙って目を閉じている。
「そしてバジリスタ軍はハーランド本営を襲い、アイザック・レン・カーネルがそれを率いていたと」
ふとオヴェリアはアイザックの最後の言葉を思い出した。
「石……」
それに全員が反応する。注目を浴びて、一瞬オヴェリアは視線を彷徨わせた。
「カーネルが言っていました……石はまだ持っているかと」
「碧の焔石ですか」
竜の化石から掘り起こされるという不思議な石。今はマルコが持っている。少年は大事そうに懐から取り出した。
「そういえば、発端はこの石でしたな」
オヴェリア達がハーランドを旅立って最初に遭遇した事件、それはこの石をめぐる物だった。石を探せと命じられたレイザランの領主は獣に変えられ、赤子に死の呪いまでかけられていた。
それを命じていたのがアイザック・レン・カーネルと、背後に控えるギル・ティモ。
「そもそも、あれは一体何だったのでしょうか」
なぜあの時彼らはあれほど執拗に石を求めていたのか。
しかしあれ以来彼らが、石を目当てに追ってくる事はなかった。
――長い年月、化石となった竜の中で唯一光を放つ石。それは竜の命そのもの。死んでなどいないと言わんばかりに、今日もマルコの手の中で石は仄かに光を帯びている。
「割れば業火が飛び出す、だったか?」
カーキッドが皮肉気に言った。
「そいつ割って、バジリスタに突き返してやれ」
「誰がその役をやるんだ」
「矢にくっ付けて飛ばせばいいだろ」
「簡単に言うな」
デュランが頭を抱える。「それに、」
「石か……」
少し間を置いた末、「実は」とデュランがオヴェリアを向き直った。
「姫様に折り入ってお話したき事が」
オヴェリアは首を傾げる。
「実は気になる事が。暗黒魔術の事でございます」
そもそも、とデュランは視線を落とす。
「竜を生み出ししはギル・ティモ。わが師ラッセル・ファーネリアを殺害し、奴は禁断の魔術書の力を手に入れた。悪魔との禁忌の契約。そして封印された書物の技を世に解き放ってしまった」
――かつて起こった大戦の際に生まれたという様々な呪法。悪魔との契約によって成し得たというその技は最大の禁として封じられてきたが。
「原書はその時失われてしまった。残っていたのは写しと、師が長年解読を試みてきた未完の訳書……」
オヴェリアはじっとデュランを見つめた。
「師亡き後旅に出る際、私はそれらを教会に預けてしまいました。よもや教会がギル・ティモと裏で結託しているとも知らず」
竜を最初に作ろうとしたのは教会だとギル・ティモは言った。マルコの両親、ビル・アールグレイとアンナ・アールグレイは、その事でマルコの目の前で連れ去られている。
「ここまでに起こった事を鑑かんがみるに、すべての元凶はあの魔術の中にある、そう思えてならぬのです。ギル・ティモが一体何を目的にしているのか、何のために竜を生み出し、どこに向かおうとしているのか……」
これまでの事、そしてこれから起こる可能性がある事柄。
「姫様、私は一度教会に出向き、今一度あの書物に向き合いたいと存じます」
一瞬全員が黙った。
「それはあまりにも危険」
言ったのはグレンだった。
「其方そなたには教会より手配が回っている。異端の扱いだ、教会に行って無事に済むわけがない」
「それは百も承知」
グレンは頷いた。
「ですがこのままでは、奴の目的、竜を滅ぼす方法、そして……」
斬っても死なぬ人間を滅ぼすには。
「戻れる機会はあった……事の重大さをもっと早くに理解していればよかった……こうなる前にあの書を調べる機会もあったはずなのに……。事ここに至ったのは私の責任でもあります」
デュランは頭を垂れた。
「姫、どうかお許しを。ハーランドに国難が迫る今、姫のお傍を離れるのはあまりに気がかり……しかしあの書に必ず鍵がある」
「……」
――教会へ。
いつも笑ったように見えるデュランの目が、今は挑むようにまっすぐオヴェリアを見つめている。
黙ってそれを受け止めるオヴェリアの目にも、小さく光る何かがあった。
そしてオヴェリアが最後の発した言葉は、
「……ありがとう」
全員がオヴェリアだけを見つめる。
「ありがとう……」
「何を、」
と、デュランが言い淀む。
――ハーランドの国難。
でも本当は、デュランには関係のない事なのだ。
デュランは確かに師の仇を追っている。ギル・ティモを討つために旅をし、その中で出会った仲間。だが彼にはハーランドの危機は関係ない。
マルコもそうだ。ハーランドとバジリスタの抗争に巻き込まれ戦場に立つ必要などない。
ましてカーキッドは海の向こうの大陸からきた存在。
ハーランドの命運など……まして本当は自分に添う必要も……。そう思いオヴェリアは耐えきれなくなって思わず涙を流した。
――暗黒の魔術。
母国の滅亡を願う叔父。そのために殺された父。
向かってくる者は皆、この国の滅亡を望んでいる。
もしその敵意が自分自身だけに向けられたものだというのならば我慢できるのだ。それは自らの責任だとオヴェリアは受け入れるだろう。
けれども、この国の滅亡は関係のない人々をも巻き込む。
日々を必死に生きている、毎日を愛している、ここで生きているすべての人の。
ただその幸せを願い守りたいと願っていただけのはずのこの国の在り方が。
――闇を生み、滅びを呼び込もうとしている。
「姫様」
気が付けばグレンが手を伸ばしていた。オヴェリアは小さく首を振った。
「大丈夫です、姫様」
泣いていてはいけないのに溢れて止まらない。
「姫様は我々がお守りします」
違う、そういう事ではないのだ。
これ以上誰かが傷つくのは見たくない。
見回すと心配そうに自分を見ている男たちがいる。その全員にオヴェリアは想いがあった。
かけがえのない人々。
「デュラン様、」
涙をぬぐいオヴェリアは神父を向き直った。
「私も共に参ります」
デュランはもちろん、その場にいた全員が目を見張った。
オヴェリアはもう一度言う。
「教会へ参ります」
「なりません、オヴェリア様」
グレンが身を乗り出す。
「姫様が行くなど断じて。奴らの狙いは姫様でありますぞ!?」
異端審問会への招集がかけられている事はオヴェリアも知っていた。
「捕らえられれば姫様は、」
かつて審問会に立たされ罪を逃れられた者はいない。そこで待つのはただ極刑。
宗教を支えに持つ国の定めである。
サンクトゥマリア大教会、永世中立を根底に持ちそれを維持できるだけの組織。
宗教は時に、国家をも踏み越える力を持つ。
……例えサンクトゥマリアの魂を抱きし剣を持とうとも。
「デュラン様だけに行かせるわけにはまいりません」
オヴェリアは言った。
「私はすべてを見なければならない……知らねばならない」
今本当に矢面に立たなければならないのは自分だと。
「それに、会いたい人がいます」
「会いたい?」
「許されるのならば――叶うならば」
オヴェリアは虚空を見つめた。
「教皇に――」