『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第50章 ガリオス −3−
◇
夜の寒さは昼間を上回る。
土地が違うだけでこれだけ変わるものなのかと、オヴェリアは不思議でならなかった。
この気温の特異さは、やはりガリオスという山の麓という点が大きいのだろう。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
大聖堂で待っていると、しばらくして修道女が現れた。
「遠路はるばるよく参られました」
神聖な笑みにオヴェリアの顔も自然とほころんだ。
「突然の申し出に、本当に……」
「いいえいいえ。ご遠慮なさらずに」
だが次の瞬間、安堵が少し苦い罪悪感へと変わる。オヴェリアはカーキッドと目を合わせる。
大聖堂で教皇の御言葉を聞いた後婚礼の祝福を受けたいと申し出るように――そう言ったのはもちろんデュランである。
そうすれば奥にある礼拝堂へと案内されるだろうと。そこで祝福を受けた後、修道女は必ずこう言うはず。
「今日はこちらに泊まっていかれませ」
普通の参拝者では中までは入れない。だが祝福を受けた者は別である。来客用の客間に案内されるはず――それが昨日取り決めた作戦であった。
思った通り、修道女は早い段階でそう言った。オヴェリアはなぜか無性に恐縮した。
「いえ……そんな、申し訳ないです」
「大丈夫ですよ。大したもてなしはできませんが」
「……ありがとうございます」
婚礼の祝福を受けた2人は、好意に甘える形で内部にとどまる事になった。
◇
「しかし広いなここは本当に」
部屋に入るなり荷物を降ろし、カーキッドは寝台に大の字で寝転んだ。
いつの間にか見慣れてしまったその光景に、オヴェリアもふっと息を吐く。
「何だか色々と申し訳なくて」
「……?」
婚礼の儀の後、修道女が内部を案内してくれた。
教会の歴史やサンクトゥマリアの事、内部に飾られた絵画や様々な彫刻……一つ一つ丁寧に説明をしてくれる。
参拝者が入れる美術品を集めたフロアから、奥の修道女たちの住居地区まで。
過去に来た時は見た事がなかった様々な場所。思っていた以上にここは広かった。
「クタクタだ」
道の途中で、魔術の教練所の傍を通った。デュランとマルコの姿を見る事は出来なかった。2人はどうやって入って、今どこにいるのだろうか。
「ハーランドの城とどっちが広い?」
問われたが、オヴェリアは首を傾げた。ここの全貌を知らないのと同じように、オヴェリアは自分が住んでいた城の隅から隅までを知っているわけではない。
「しかしまぁ本当に、サンクトゥマリア一色だなここは」
毒づく男に苦笑する。当然だ。
「サンクトゥマリアの聖地なのですから」
「……聖地か……あそこじゃねぇのか?」
「?」
「ほれ、国境の真ん中。テトだっけか?」
あ……とオヴェリアは思った。
永世中立区テト。20年前のハーランドとバジリスタの抗争の際、停戦の協定を結んだ場所。
そう言えば……と思い出す。色々な事があって忘れていたが、アーク軍に合流する際そこに立ち寄った時、デュランが気になる事を言っていた。
サンクトゥマリアの最期の話だ。
世界を救ったというサンクトゥマリアは、最期、その地で処刑されたのだと。教会の文献にはそう記載されているのだと。
カーキッドも同じ事を思い出した様子で身を起こす。
「そんな素振り、ないなここには」
たった今、内部の絵画や彫刻、サンクトゥマリアに関する様々な物を見てきた。修道女からも歴史や背景、諸々の伝説を聞いた。
だがそこに、サンクトゥマリアが処刑されたなどという事は一切出てこなかった。
無論オヴェリア自身、そんな話を聞いたのはあの時が初めてだった。
「あいつの思い違いじゃねぇのか?」
「……しかしあの方はここに従事していた方」
世界を救ったと言われる女性が最期は処刑された。
だが今彼女は、聖母としてこの世界の信仰の要となっている。
サンクトゥマリア。
「色々聞いたが、わからん事が多いな」
「……」
「大体、テトで死んだとしたらなんでこんな辺鄙な所に礼拝堂があるんだ? あそこに作りゃいいだろうが」
「……国境の取り決めの都合でしょうか」
昔、オヴェリアが好んで読んでいた絵本があった。サンクトゥマリアの物語だ。
母であるローゼン・リルカ・ハーランドが婚礼の際一緒に持ってきた物で、彼女自身も小さい頃母からもらったと言っていた。
そこには混沌に落ちた世界と、世界を救ったという女性の姿が描かれていた。
その物語の中には、彼女を助ける仲間がいた。
後に知るのは、史実に彼の存在はなかった事。彼女に従った多くの兵士はいた。だがその中に、絵本の中に出てきたような者はいなかった。架空の人物だったのだ。
それからずっと思いはせていた……彼女の傍には仲間はいなかったのかと。従う兵士ではなく、共に戦う仲間――。
――この人のように……。
ふとそこにいる男を見てオヴェリアは思った。思った後に後悔する。自分を聖母と比べるのはおこがましすぎる。
そしてカーキッドはその視線に気づく様子もなく、「腹が減った」と言った。
「食事まで用意してくださるなんて、本当にありがたい事です」
「……」
それから、何となく2人黙り込んだ。
オヴェリアは荷物の整理をする事にした。服の中に入れていた白薔薇の剣を取り出し人心地つく。
カーキッドも黒の剣を抜き、刀身の曇りを確認する。
寝台が1つしかなかったので、とりあえず背中合わせにオヴェリアは腰を掛ける。今夜ここで眠る事はない。オヴェリアは寝台が1つしかない事に対して、眠る場所の心配はしなかった。
だがカーキッドは、少し違っていたのかもしれない。
「こういうのって、どうなんだろうな」
不意に彼が口を開いた時、オヴェリアはもうウトウトしていた。
「ん?」
長旅でさすがに疲れた。そして今ここにはふかふかの場所がある。
「……神父の前で、祝福を受けたって事はだ、」
「……」
「俺らは……何なんだろうな」
カーキッドが何かに悩んでいる……それが、オヴェリアが思った最後の言葉だった。
大丈夫よ、大丈夫……意味もわからず心の中で答えたけれども。
「もしも……もしもだ、」
「……」
「全部終わったら……」
「……」
「……寝たのか」
滑り落ちるようにもたれかかってきた少女を抱き留め、カーキッドは苦笑しながら寝台に寝かせた。
ふと、その寝顔を眺める。そばかすが気になったが、こすったら消えてしまう。
あまり触れられない。だがせめて眼鏡くらいは外して。
「……」
祝福の時、しなかった代わりに。
今ここでそっと誓いの口づけをしたとしても……罰は当たらんだろうと、カーキッドは思った。
誓うさ、こいつを守る事、と。
この日が来たのだと……痛切に思った。
愛しているのだと。
……認めざる得ない日が。
◇
しばらくして、食事に案内された。
その時にはオヴェリアも起き、用意を整えていた。
剣は隠し持って行く。座る時に違和感がないように整える。カーキッドも同様だ。彼の剣は一回り大きいだけに、余計と難しいようだった。
やはり猫背になっている。一見、鬼神の風貌はどこにもない。
乱れた茶色の髪に触れてみると、カーキッドに似合わぬほどの細い猫毛だった。思わずクスクスとオヴェリアは笑った。
部屋に現れた修道女は、そんな2人の様子を見て微笑んだ。
「お幸せそうで羨ましいですわ」
オヴェリアは赤面し、カーキッドも神妙な顔をした。
食堂までの道は少し長い道のりだった。廊下は厚手のじゅうたんが敷き詰められていた。足音は皆吸い込まれていく。
修道女の後ろを、少しぎこちなく歩く2人。やがて、向こうから3人ほど歩いてくるのが見えた。
端に寄った修道女に倣ならい、オヴェリアとカーキッドも壁際に寄る。
誰が来るのか、見定めようという気持ちはなかった。だがその人物を見た瞬間オヴェリアは凍り付いた。
枢機卿ドルターナ――。
オヴェリアは俯く。カーキッドも同様にすぐに気が付いた。
ドルターナと、側近であろう2人の神職者が歩いてくる。
――まさか、こんな所で
ミゼル・ドルターナ――彼に最後に会ったのは、ハーランドの西にあるザルツヘブンの地。
いかに変装していても、直面すれば見破られる。逃げ出したくとも今ここで不用意に動けばかえって目につくだろう。
心臓が早く打ち付けられる。どうするべきか……冷汗が流れ出し服の中を伝っていく。
だが結局、その一団は手前の十字路を左へ折れて行った。目の前を通っていく事はなかった。
「参りましょうか」
それを見届け、修道女が微笑む。
警戒しながら後ろに従う。枢機卿達が行った方を見ると、思ったより背中は遠くにあった。
振り返られる前に、さっと抜ける事にする。
◇
食事は素晴らしい物だった。
北方の産物をふんだんに使った美しい料理に、カーキッドは舌鼓を打ち続けていた。
特に彼は料理人という触れ込みだったので、料理を用意してくれた修道女に幾つか質問をされていた。どんな料理を出す店なのか、今度行ってみたいですわと。
それなりに彼もうまく返答をしていたので、本物の料理人のようだとオヴェリアは思っていた。
だがその一方で彼女の頭を占めるのは先ほど見た人物。……枢機卿ミゼル・ドルターナ。
ここは教皇が住まう総主教庁だ。彼がここにいてもおかしくはない。
――ならば、
最後に会った時、男の傍にはあの魔導士がいた。
――ギル・ティモ……。
腹の中なのだと言ったカーキッドの言葉が、ようやく心に浸透するかのようだった。
いつ何時何が起こってもおかしくはない、そういう場所にいるのだ。
「リルカ様は? お口に合いますか?」
不意に問われ、オヴェリアは驚いて顔を上げた。
「すごく美味しいです」
「良かった」
……服の中にある白薔薇の剣は、いつでも抜ける場所にはない。
それに初めて、不安を覚えたオヴェリアである。