『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第51章  深淵 −3−

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 口を開いた階段を前に、オヴェリアは息を呑んだ。
「どうする?」
 カーキッドは面白そうに問いかける。
 下から聞こえる音、その音へと続く入り口は。
 ずっとずっと下へ。
 デュランも知らない、地下の地下。
 これは一体、何だというのか。
 マルコは明らかに恐怖の表情を張り付かせている。
 決断はデュランに委ねるしかない。オヴェリアは修道女姿の神父を見た。
「……まさか、」
 こんな道があるなどと。
「……」
 デュランは一時カーキッドを睨むようにして見たが。
 ……やがて身をその穴の中へと滑り込ませた。
「マルコ、気を引き締めろ」
「は、はい」
 震えながら少年が次に入る。
「オヴェリア、準備しとけ」
 言いながらカーキッドは完全にいつもの場所に剣を持ち替えた。
 頷くその首が、もう震えている。
 怖いなどとは誰も言わなかった。歯を食いしばってオヴェリアも耐えた。
 両手両足で、獣のようにして降りて行く。途中オヴェリアは何度か、マルコを蹴ってしまわないか不安に駆られた。
「階段はここまでのようです」
 どれだけ降りたかわからない、やがて階段を下りた頃、辺りは完全な闇ではなくなっていた。
 壁の向こうが仄かに明るい。
 そっと忍んで行くと、その先にはさらに下へ伸びる階段があった。
「どこまで降りろって?」
 カーキッドが口の端で笑った。
「……こんな地下があるなど……」
 デュランはまだ理解できない様子。
 しかも壁には火が入れてある。人の手が及んでいる証拠である。
 マルコは震えている。オヴェリアは自分の震えも止めるように、その肩をぎゅっと抱きしめた。
 行く行かないは誰も問わない。ただ前に進んだ。
 ……ただ全員の中に予感があった。
 それはこれ以上く無色透明な、嫌な予感だった。
「……教会ってのは、」
 階段を下りながら、カーキッドが言った。
「妙な組織だな」
 やがて段差は、吹き抜けの円周に沿うような形へと変わる。
「サンクトゥマリアってのは、聖母だったか?」
 口数少なくなった中で、カーキッドだけが話している。
「ずっと思っていたんだが」
 それを咎める声はない。
「なんで、聖母だ?」
「――」
 その問いに、デュランが顔を上げた。
「……何?」
「聖母ってのは、母ちゃんって意味だろ?」
「――」
「世界を救った少女――だが聖母=Bずっと思ってたんだが……そういうもんなのか?」
 ――聖女≠ナ、いいはず。
「見えてきた」
 愕然と。何か無性に愕然とする中で。
 吹き抜けの終点、階段の終点が見えてきた。
 降り切るとすぐの所に扉があった。
 オヴェリアは上を見上げた。先ほど書庫の下から見たのとは違う、天は夜空のような黒だった。
 扉は鍵が掛かっていない。
 カーキッドが身を潜めながらそっと覗く。
 ……瞬間的な沈黙があった。
 そして男は扉の中へと入って行った。オヴェリアが続く。
 マルコ、そして最後にデュラン。
 ……扉の向こうは、ひどく広い空間だった。
 地下にこんな広い場所があったのか――いや、問題はそこではない。
「これは……」
 4人は階上にある。手すりの向こう、下に広がる空間にあったのは。
 幾多の……巨大な水槽。
 林立する、長い瓶のような水槽が埋め尽くし。埋め尽くされたその間に、よくわからない機材と鉄の格子と。
 光と音を放つ箱。
 光から漏れるのは、揺れ動く陽炎の残影。
 すべてが正確に整えられているかのような白と水の世界の中で。
 その奇妙光景の中を歩くのは、白い服の者達。聖職者とは明らかに違う、よく言えば研究者だ。
 そして彼らが一番視線を捧げている大きな透明の容器には、蒼を薄めたような色の水がいっぱいに満たされていた。
 その水が絶えずゴボゴボと揺れるのは、中にいる物が動いているから。
 蠢いているから。
 オヴェリアは口に手を当てた。強く、すべての衝動を抑え込むために。
 声を上げてはいけない――堪えろ、何を見てもこの場所は。
 ……容器に入っているのは、人外の生物。
 何かを思うな、この場所は単純なまでに。
 ……見た事ある、何度見た? 何度戦った?
 満ち満ちている、その水は容器を這い出てこの世界その物を誘うのだ。
 ……人を食らうのだ、それは。なのに。
 …………蟲だった。
 容器の中にあったのは、紛れもなく、蟲。
 それも1つ2つじゃない。部屋を埋め尽くすすべての透明の容器に墜ちていたのは。
 産声を上げて孵化した所から。
 大切に育て上げて、育て上げて――。
 ……。


 蟲が造られている――。
 4人が教会の奥底、深淵の果てで見たのは。
 ……蟲が、人によって、生み出される所だった……。

  ◇

 そのまま4人は、書庫に戻った。
 誰も何も言えなかった。
 マルコが吐いた。オヴェリアは背をさすりながら、唇を噛みしめた。
 こんな……一体何が起きているというのか。
「あれは何だ? おい、デュラン」
 どれくらいの沈黙の果てであったか。口を開いたカーキッドは、
「……わからぬ」
「とぼけんな。お前も見ただろ!? あれは」
「蟲を……」
 マルコが呆然と。
「何が……」
 起きているの? と。
 ……むしろ、答えを遠くに押しやりたい。そう願ったのは全員。
 書庫の青い石たちは変わらずに輝いている。だが今それは清らかというより寒々として見えた。
 だが震えは、寒さのせいではない。
「……行きましょう」
 すべてが終わったように思えた沈黙の中で。
 オヴェリアが立ち上がった。しかしそれは、何かに決意したというよりもどこか呆然と。
 立ち上がった事すら気づいていないかのような虚ろの中で心だけが。
「どこへ……」
「教皇ウリア様の元へ」
「……」
「問わなければならない……もう、許されない」
 沈黙は許さない。
 今ここで何が起こっているのか。
 問うまでは帰れない。
 教皇が言わぬなら、枢機卿を問い詰めても。
 無理矢理にでも――この剣に訴えかけるような事になろうとも。
「……」
「……」
「……」
「……わかった」
 承諾の音ねは、カーキッド。
「デュラン、お前はマルコを連れて退ひけ。後は俺たちで行く」
「馬鹿を言うな」
 デュランが叫んだ。それは本気の怒りだった。
「……ふざけるな……退けるか。ここでッ……こんな所でッ……!!」
 カーキッドはマルコを見る。少年も唇を噛みしめながら頷いた。
 その姿を見て、カーキッドはふと目を細めた。
 彼の表情は静かだった。そして声はいつも以上に深く、むしろ澄んでいるようだった。
「……行く。2人だけで行かせるわけにはいかぬ」
「……」
 沈黙した後、カーキッドはふっと笑ったように見えた。
「そうか」
 オヴェリアに続き立ち上がり、ただ無言で、震える少女の肩をそっと抱いた
 分厚いだけの上着を脱ぎ放つ。下に露わになるのは簡素な胸あて。この気温、この体感にそぐわない格好であるが、構わぬ様子でいつもの革の手袋に付け替える。
 掻き上げる髪が、黒の中に光る。
 オヴェリアもそばかすをぬぐって服を整える。
 デュランは修道女の下に着ていたキャソックに直す。青ざめていた頬を両掌で叩はたいて正気を取り戻そうと。
「……行こう」
 師の残した写しを懐にしまい込み。
 地下書庫を後にする。



「教皇はどこにいる」
「中央の上……天上の塔」
「御大層だな」
 何も考えたくないと思いながらオヴェリアは歩いた。
 大丈夫か、と誰も言わなかった。
 ただ不意に、カーキッドに手を掴まれた。
 昼間繋いだのと同じ手だ。だがその時とは違う力。想い。
 ……握り返したオヴェリアは、何を求めたかわからなかった。
 ただ、池の畔で聞いたカーキッドの言葉が脳裏に響いた。
 傍を離れるなと。
 ……頷こうとする彼女を、強すぎる鼓動が、それを阻止するように鳴り響いた。

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