『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第52章 さようなら −1−
くぐもった空の向こうにある遥かなる天。
最後にもう一度だけ問おう。
それは本当に、神の域なのかと。
52
悪寒が急激に増して行く。
けれども、震えるより先に叫びたいとオヴェリアは思った。
何が起こっているのか、自分でもよくわからない。
始まりは何だったのだろうか?
誰に何を問えば答えが出るのだ?
直面した現実は、一体何だったのか?
考え込むオヴェリアの傍で、兵士を、音もなくマルコが眠らせる。
先ほどは後退までの時間稼ぎに過ぎなかった。だが今は違う。
本当は、教皇に会うには別の手段を取るしかないかと思っていた。強行突破は簡単だろう、だが撤退はそうはいかない。
ここは完全なる腹の中。
だが事情が変わった。このまま突き進むしかない。
「この上へ」
階段を駆け上る。見回りの兵士と出くわす。
だが兵士が何かを叫ぶより早く、カーキッドの一閃が宙を舞った。
「早く!!」
――問わなければならない。
これは、もう、一刻の猶予もなく。
なぜ教会の地下にあんな物があった?
蟲――初めて見たのは、王都を出てすぐの事だ。
生態はわからないとオヴェリアは聞いた。ギョウライチュウの変異だと。どこからともなく現れて卵を産み付けるのだと。
それは火が効かない。繭の状態ならば、並大抵の火では繭を焼くだけ。そして孵った蟲に火を使えば、怒りを一層あおる事になる。
どこかで誰かが言っていた――まるで誰かに教えられたように、孵化した蟲はまっすぐ人を襲うのだと。
まるでそれだけを目的とし生まれてきたように。
……その生命は、生きる事すら与えられていないように思えた。
その身を焼かれる事にさえ、恐れを覚えぬ生き物。
「何者だ!?」
「黙れ」
恐れがないとは、生きていないようなもの。
「大丈夫ですか、カーキッドさん!?」
「……馬鹿野郎、俺は何ともねぇ。マルコ、オヴェリアをしっかり守れ」
そして――マルコの両親は蟲を造った容疑で処刑されているのだ。
――もし、
蟲を。
――もし、
本当に造っていたのが教会ならば――。
マルコの両親は? 彼らは元々蟲などとは関わりがなかったが。
――マルコの生まれた村は、蟲によって滅んでいる。
蟲を造ったと断定されたのは、彼の生家の付近に卵があったから。
……それも、もしかしたら。
「我ここに魂を刻む」
「……」
蟲と教会。
教会と竜。
そして禁断の魔術と。
……バジリスタ。
「……あとどれくらい先ですか」
オヴェリアはデュランに聞いた。
「この上、さらに上」
駆け上るために足に問う。動いてくれるかと。
震えは最初は寒さによるものだった。それが恐れになり、今は怒りに変わろうとしている。
「……行きましょう」
オヴェリアは強く地面を蹴った。
行くしかないのだと思った。
……撤退は、考えていなかった。
4人はひた走った。
上に行くほどに兵士の数は増えて行った。
それを、カーキッドが昏倒させマルコが眠らせる。
少しずつ、肌に触る空気がざわつき始めているのをカーキッドは感じ取っていた。
「そろそろ気づかれるぞ」
オヴェリアを見る。彼女はどこか虚空を見つめているようだった。
その様子にふっと彼の目にも一瞬影が落ちるが、次の瞬間払拭するように輝いた。
「とにかく教皇の所へ。教皇がいなけりゃ、枢機卿を締め上げるぞ」
枢機卿という言葉にマルコが一瞬足を止めかけた。それを見てデュランが深く頷く。
「そうだな。彼には色々と礼をせねばならぬ……マルコの事も含めてだ」
マルコは枢機卿ドルターナに、禁忌の術の一つやぐら見の術≠使われた事がある。心の内に眠る記憶を覗く術である。
ともすればあの時心を壊してもおかしくはなかった。少年に使うにはあまりにも危険な術だ。
「クソが……何が宗教だ、何が神様だ」
カーキッドが正直に毒づいた。それくらい、地下の光景は虫唾が走るものだった。
「……クソ」
議論は後だ。とにかく今は先へと。
「待て、止まれ」
回廊に飛び出す間際、デュランが3人を止めた。
「ここを左に曲がると、……枢機卿の部屋がある」
「――」
「教皇はもう一つ上だ。……どちらを取る?」
デュランはオヴェリアを見た。
考えた末、オヴェリアは上への道を選んだ。
それはただの予感だった。
たった今まで、彼女は教皇に事の真相を問わなければいけないと願った。怒りを伴うほどに。
だが今、デュランに道を問われ、唐突に脳裏に浮かんだ事は。
教皇ウリアは、無事なのか。
教皇は最近、公の場に顔を出していない……昼間の御言葉の儀の際も、出てきたのは見知らぬ神官であった。
かつて会ったドルターナの事が引っかかった。
ドルターナがやっている事を、彼女は知っているのか?
教皇ウリアには無論会った事がある。歳は妙齢だ。だが聡明な女性だった。透明なほどの青い目が印象的だった。
「ウリア様の……安否を」
口に出した。
それで意味が伝わった。
問うべき事がある。だがまず第一に見なければならないのは、彼女の状態。
それから後に、できるならばこの現状を問いたい。本当に教皇はすべてを知っているのか。もし知っているのならばなぜ容認しているのか。
もし何も知らなかったとしたならば――また、状況が変わる。
刻々と何かが変化しようとしている。濁流の中に、幾多の流水の分岐がある。
どの道を選ぶかで、末路の答えが変わってくる。
この選択は、すべて、賭けだ。
「行きましょう!」
オヴェリアは願った。何一つ考えがまとまらない中で、唯一の希望は、教皇が何も知らない事のような気がした。
――もしも全部知っていたら?
階段の一段一段が、心臓に向かって跳ね上がってくる。
そう……もしも全部知っていて、枢機卿に指示を出していたのが教皇自身だったら――。
地下で蟲を造り、竜をも作り。
子供に呪いを掛け、闇の魔導師を飼い。
ハーランドを亡ぼそうとする隣国の者と繋がる事を――もしも、彼女自身が望んでいたとしたら。
記憶の中の、慈悲深い笑顔が脳裏を過り。
「滅びよ」
と、ズファイの声で突きつけられた。
――その時は。
……帰れぬ――オヴェリアは初めてそう思った。
ああ……だとしたらもう、戻れぬと。帰れないと。
――ここで。
例え汚名を着る事になろうとも。
――グレン、
例え神に――教会を信じるすべての人民を裏切る事になろうとも。
生きて、帰れないとしても。
「……」
ここでやるしかない……そう思った。
暁はどこにあるのかと思った。
あの安らかな湖面は、今も静けさを守ったままなのだろうか。
修道女の笑顔、祝福をくれた神官の笑み。
そして、ここに集ったたくさんの人たちの横顔と。
――救いを。
赦しを。
「――」
上る階段はあった。
だが降りる階段はないのだと。
今初めてオヴェリアは。己の選択の行方に気づいた。
「あそこです」
階段の向こうに、分厚い扉が控えている。
見張りは誰も立っていない。気味が悪いほどの静寂は、逆にここが別の世界だと思わせた。
ここは人界ではなく、天上人が住まう場所だと。
人の概念を持ち込む事、非ずと。
されど――オヴェリアは踏み込んで行く。
ここは人の地だ。神の世界ではない。
「デュラン」
進んで行くオヴェリアの後を追おうとするデュランを、不意にカーキッドが止めた。
「聞け」
そっと耳打ちする。デュランは蒼白の顔を向けた。
「この先何かあった時は、オヴェリアを連れて逃げろ。いいな」
「――」
デュランの双眸が驚き見開かれる。
「……それは、」
「頼んだぞ」
それだけ言い捨て、カーキッドはオヴェリアの後を追った。
男の手はもう、剣を握りしめている。
デュランは眉間に深く深くしわを寄せた。
そして一番後ろから、扉へ向かうオヴェリアとカーキッドの姿を焼き付けるかのようにじっと見つめた。
◇
扉を開ける瞬間にオヴェリアは父の名を呼んだ。
この瞬間、他に浮かばなかった。
もしここにいたら何と言われるか――否。
宿ってる、この心にその魂は。
きっと言う、迷わず進めと強い瞳で。
――父上。
鍵は開いている。
重苦しい音も鳴り響かない。
だが空気が滑るようにはいかない。
……否定されたと思ったのは、中から風が吹いたように感じたから。
もう一度強く押した腕には。
……別の誰かの力がこもっているように思えた。