『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第52章  さようなら −2−

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 これが教皇の部屋なのかと、一瞬オヴェリアですら目を疑った。
 扉の向こうは、まるで謁見の間だ。
 長い道が続いている。赤いじゅうたんに描かれた白いユリ。
 神聖騎士団が背負っている物と同じ、誇り高き花。
 土足で踏み込む事を一瞬オヴェリアはためらった。だが進む道を選ぶ。
 壁には火が灯されている。廊下よりは暗いが、ほの明るい。
 道の先、少し高くなった場所に天蓋が見える。あれは寝台だ。
 あそこに教皇ウリアがいるのか? ……鼓動が、むしろすっと冷めていく。
 怒りも熱も、同時に消えて。
 戻ってくる感情は、恐怖。
 ……違う、それすら消えていく。
 この、無に近い感情は何なのか?
 白でも黒でもない感情の中で、ただ震えだけが増して行く。
 やはりこれは恐怖なのか?
 何に恐怖しているのか? 目の前にいるであろう人物か? それとも、一刻一刻と迫る運命の時になのか?
 ――魂だけが、先に何かに気づいている。
 足が、歩き方を忘れたと言って今にも止まりだしそうな気がした。
「静かだ」
 そんな彼女の耳にふと飛び込んできた声。
 気づけばすぐ隣にカーキッドがいた。
「どうして見張りが誰もいない?」
「……私もここに入ったのは初めてです」
 すぐ後ろにデュランがいる。マルコも小走りについてくる。
 1人ではないのだと、気づく。
 そしてオヴェリアはぎゅっと目をつむった。ごめんなさいと心の中で呟いた。
 今すぐここを立ち去れと言いたい。もっと早くに言うべきだった。
 でも、彼らはそれでもついてきただろう。
 巻き込んでごめんなさいと謝った事もあった。だが、巻き込んだのは自分の方だと逆に謝られた。
 自分の道はここに至った。ここに来てしまったのだ。
 ――ごめんなさい。
 気づくのが遅かった。
 もう戻れない。
「教皇は、あそこか……?」
 帰る道はない。
 ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で泣きながら。
 ついてきてくれたこの者たちに、どうしたら詫びる事ができるのかと思いながら。
「ウリア様……」
 もう、退けとも言えない自分は。
 ……不意に彼女は、地下の書庫で見た絵を思い出した。黒い空、無数の黒い翼に囲まれた女の姿。
 あの時あれは堕天使だと思った。……違うと今更気づいた。
 あれは人だ。
 罪の中に汚れた、自分の姿そのものではないかと。
 ……そして。
「ここから先は、私が1人で」
 壇の下に辿り着く。
 オヴェリアは3人の男たちを振り返った。
「……わかった、ここにいる」
 3人共頷く。オヴェリアもそれに答えた。
 1人、ゆっくりと寝台へ続く階段を上がる。
 寝台の上にある天井は青く光っていた。地下で見た光景に似ていた。
 最後の段を上がる、静かに息を整える。
「教皇ウリア様」
 返る声はない。
 胸に手を当て、オヴェリアはもう一度言った。
「ウリア様、……このような時分に申し訳ありません」
 ハーランドのオヴェリアです――閉められた天蓋から降りたレースの中に、確かに横たわる人の影があった。
 手を掛けた。無礼は承知。
 開いていく。
「――」
 ウリア様――もう一度その名を呼ぼうとした瞬間。彼女はピタリと手を止めた。
 横たわる老女。
 オヴェリアが最後に見た時の姿と、とてもすぐには重ならないほどに――その姿は。
「あ……」
 やせ細り、こけて。
「ウリア様、」
 まるでそれは、……ミイラのように。
 記憶の中の女性の面影は、どこにもなかった。
 愕然とした。もう立っていられなかった。
 これが答えかと、オヴェリアは膝をついた。
 だが、その時だった。
 何かを感じ、彼女は朦朧もうろうと振り返った。そこには石の壁があるだけだった。
 だが瞬きをした次の瞬間、その場に人影が浮かび上がった。
 唖然とするオヴェリアの目の前で、その人影は仄かに青い光を放つと。
 ……白い衣が、フワリと舞った。
「あ……」
 そこに、女性が現れたのは間もなくだった。
 美しい女性であり、老婆であり、様々に女の形が変わっていく。
 やがてその姿は、彼女の記憶の中にある姿となった。
「ウリア、様――」
 教皇ウリア。
 そこに揺るぎない笑みをたたえて。
 その女性は、オヴェリアの前に形作った。
『オヴェリア姫……』
 口は動いていない。声ではない、これは耳で聞いているものではない。
「どうしたオヴェリア!?」
 そして、カーキッド達には見えていないのだとオヴェリアは悟る。
 これは幻なのだろうか? 膝を付いたまま彼女は考える。
『ずっとそなたを、見てきました』
「ウリア様……」
 幻かそれとも魔術の類か、オヴェリアにはわからない。
 だがどちらでも構わない、彼女は気持ちを切り替える。今目の前にいるのは教皇ウリアだ。
「ウリア様……あなた様でございますね?」
 ウリアは微笑んでいる。
「突然の無礼、お許しください。お尋ねしたい事があって参りました」
 立ち上がったオヴェリアに、ウリアは一層笑みを深くした。まるで、今この状況にひるまず立ち向かってくる少女を面白がっているかのように。
「今ここでは、何が起こっているのですか?」
『……』
「地下は……あれは一体なんなのですか!? 教会は一体、何を成そうとしているのですか!?」
 教皇の考えを聞きたい、その一心でここまで駆けてきた。
 その結果目の当たりにしたのは、想像すらしていなかった現実。
「お答えください、ウリア様!!」
 オヴェリアは叫んだが、ウリアはただ瞳を閉ざした。
『王女オヴェリア』
 澄んだ声だと思う、だが歪んでいるようにも聞こえる。
 本当に聞こえているようにも思う。だが実際には何も響いてこない。
 夢に近い。――そう思い、ふとオヴェリアの脳裏に蘇る光景があった。
 ――あの時、
 エンドリアに向かう途中、ズファイに捕らえられた時、オヴェリアは夢を見た。
 白い老婆の夢。老婆はこう言った。ハーランドが滅ぶと。
「まさか、」
 ――この国の命運はそなたが握っている。
「あの時の――」
 教皇ウリアは微笑んだ。
 やがて彼女はその笑みを眼下の男たちに向けた。
 やはり3人には見えていない。だが、
『あなたを守る者たち』
「――」
『オヴェリア姫、強くなられましたね』
「ウリア様、私は、」
 どうしたら、この先どうしたら――と。
 叫びたいのに声が出ない。もう出ない。
 ただ、代わりに先ほどより深く声が響いてくる。
『……哀れ』
『あの者の罪は、私の罪』
『裁かれるのは、私でしょう』
 ウリア様、何を――心の中で必死に叫ぶ。
『白薔薇の剣は聖なる剣』
「――」
『あなたが貫く正義の剣――それはあなただけの物です』
「――ウリア様、」
 言葉が喉から飛び出した刹那。
 ウリアの姿は空気に溶けるように消えて行った。
 息が荒く、肩が追いつかないほどだった。
「オヴェリア!!」
 異変を感じたカーキッド達が壇上に駆けてくる。
「どうした、お前、一体」
「今……ウリア様が、」
「何?」
 デュランが、寝台のウリアを見て絶句する。
「こ、これは……………」
 ウリア様――まだ聞きたい事がある、話したい事があるのだと、オヴェリアは切実にその名を呼ぼうとしたが。
 もうそれ以上は許されなかった。
 無遠慮なほど唐突な音が辺りに鳴り響いた。オヴェリア達は一斉に音の方を振り返る。
 人が部屋になだれ込んでくる所だった。……神聖騎士団だ。
 そして陣頭にいたのは。
「これは……オヴェリア様」
「枢機卿――」
 枢機卿ミゼル・ドルターナ。
 ……再会であった。

  ◇

「かような時間にこのような場所に、一体何事ですかな」
 壇上から見下ろす、眼下はもう神聖騎士団によって取り囲まれている。
 出入り口も完全に騎士によって封じられた様は。
 ……無論、後ろにあるのは冷たく冷えた石の壁。
「ここがどこかわかっておられるか? その方が誰かわかっておられるか?」
 枢機卿の声がジワジワと怒りに包まれていく。
「ここは教皇様の部屋ぞ!? いかにハーランドの王族の娘とて、かような無礼許されぬ」
「教皇……!? ならば問う、枢機卿ミゼル・ドルターナ!! この教皇様の変わりよう、一体何事だ!!」
 オヴェリアの前に立ち、叫んだのはデュランだった。
「こんなッ……このような姿ッ」
「デュラン・フランシス」
 彼の姿に、ドルターナの顔が厳しく歪んだ。
 枢機卿ドルターナ。元はハーランドの貴族であった。
 両親兄共に同じ病で命を落とし、ドルターナの家は没落。唯一残った彼は聖職者としての道を選んだ。
 柔和で温厚、絵に描いたような慈悲深い男。彼が怒り狂った姿など誰も見た事がない――世にそう言われる男である。
 オヴェリアもそう信じてきた。ハーランドと教会を繋ぐ橋渡しとしての枢機卿。それ以上も以下も、疑いようがないと思っていた。
 だが男の印象が変わったのは数か月前。
 幼いマルコを拉致同然にさらい、拷問にかけた。
 そして彼がバジリスタより招いたとされる魔導師は、禁忌の魔術の使い手。
 最後に会ったのはマルコを助け出した夜。失望と絶望、怒りと悲しみの入り混じった表情で、彼はオヴェリアに背を向け去って行った。
 その男が今目の前にいる。
 ……あの事件の後、王都にオヴェリアを引き渡せという書が届いたと後に聞いた。すべてはこの男の意向だ。
「……ミゼル・ドルターナ」
 デュランがオヴェリアを振り返り、少し脇にずれる。
 オヴェリアとドルターナの視線がまっすぐにぶつかり合う。
「このような時間に押し入った事は詫びます。いらぬ騒動を起こしました」
 カーキッドに無言で言う。まだ剣を向けるなと。
 枢機卿の視線が一瞬マルコへ向かって飛んだのがわかった。だからオヴェリアは声を大きくした。
「だが、かような無礼を圧しても問わねばならぬ事がある。そなたの目的は何ですか」
「……」
「教皇様のこのお姿――説明せよ」
「――」
 多くの兵士が控えている。彼らが何をどこまで理解しているのか。
「……病」
 瞬きのないにらみ合いの末、口を開いた枢機卿は眉間に重いしわを寄せて視線をそらした。
「……病だ」
「いつから」
「……答える必要はない」
 ただ、
「このようなお姿――」
 一歩寝台へ近づきかけたデュランに向かい、ドルターナが叫んだ。
「近づくなッ!!!!」
「――」
「……そこから離れろ、オヴェリア王女……貴様らのような者が、近づいていい方ではない……傍にいる事さえ許さぬ……離れろ、今すぐにッ」
 だがオヴェリアは動かなかった。意識したわけではなかった。だが暗黙に、彼女はこの位置を守らなければならないと思った。
 見下ろす者と、見上げる者。この立ち位置は絶対だ。
「枢機卿ミゼル・ドルターナ」
 動かぬ4人に、ドルターナは一層苛立たしげな表情を浮かべた。そこにはもう聖人君子の姿はない。
「教皇の状態は元より、そなたに断固として問わねばならない事がある」
 オヴェリアは音を殺して深呼吸をする。
「地下で何をしている」
「――」
「地下でそなたらは――この教会は、一体何をしているのだ!?」
 一瞬沈黙を吐としたドルターナであったが。
「……地下に無断で立ち入ったというのか。何たる事」
「答えよ、ドルターナ」
「答える義理はない。ここはハーランドの領内に非ず」
「姫様に逆らうか」
「黙れ小童こわっぱが」
 デュランは驚愕に目を剥いた。
「……答えぬと申すか」
「ここは我が聖サンクトゥマリア大教会の所領。ハーランドの法も権限も及ばぬ。領内の侵犯は罪だ。教皇の部屋に押し入るなど、法も理解できぬ汚らわしい獣以下の行為だ」
 ドルターナはこんな男であったのか? オヴェリアは思った。
 剣幕が尋常ではない。
 それは今、ここにいる事が原因か?
 ――ウリア様、
「……地下で我らは蟲を見た。まるでそこで産み育てているような光景だった」
 兵士たちに動揺がない。
「ハーランドは近年、蟲の被害に遭っている……たくさんの町や村が滅ぼされた。あなたが尋問したマルコの生まれ故郷も蟲に滅ぼされた」
 マルコの姿は、カーキッドがうまく隠している。
「そしてその子の両親は、蟲を造ったという罪を着せられ処刑された」
 むしろおかしい――ここまで兵士が何の動揺も見せないのは。
 枢機卿も瞬きすらやめている。
「マルコの両親、ビルとアンナが本当に研究していたのは、竜を蘇らせる事。……そして、北方の地ゴルディアに現れた黒い竜」
「……」
「ハーランドの混乱の最初の投石は、それだった……我々はその討伐に向かった。険しい旅だった。城の中で暮らしていた私にとっては、見るものすべてが未知の世界だった。……だが恐らくそれは、私だけではなかったはず」
「……」
「ハーランドに暮らすすべての人々が、知らぬ間に巻き込まれようとしている。……国を脅かし、揺るがす何かの脅威に。知らぬ間に直面しようとしている――今まさにこの瞬間も」
「……」
「ゴルディアにたどり着き、我らは目的の黒い竜に会った。黒い竜の誕生に関わった魔導師は言った、元々最初に竜を復活させようとしていたのは教会だったと」
「……」
「今一度問う、枢機卿ドルターナ。沈黙も詭弁も許さぬ――教会は何をしている?」
 声がした。
「ハーランドを巻き込み、そなたは何を企む?」
 白薔薇の剣を握れと――それは父の声だった。
「……申さぬ」
 もう、他の誰にも問い正せない。
 今ここでオヴェリアが言わなければ闇に葬られてしまう。
 そんな事は許さない。
 あんな物を見た現状で、絶対に。
 ――罪を赦し、人を赦す
 ああ、そんな事ができるわけがない。
「……」
「……」
 剣を向ける。
 彼女は1人ではないのだ。
 この背の後ろにいるのは、仲間と共に――ハーランドに生きるすべての人々。
 父と母が守り抜いたハーランドの国。国を守るという事は、そこに生きる人々を守るという事。
 だから、今ここで。
「答えよ、枢機卿ッ!!」
 退けないのだ。
「……」
 光よりも人を貫くような青い目だった。
 だがオヴェリアが次に聞いたのは。
「は……ははは……」
 乾いた笑い声だった。

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