『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第52章 さようなら −3−
「はは、ははは……」
デュランがオヴェリアを後ろへ退かせる。カーキッドも一歩前に出た。
「気が狂ったか」
口元を傾けたカーキッドであったが。
「……投降せよ、オヴェリア・リザ・ハーランド」
それはあまりにも暗い声だった。オヴェリアはもちろん、カーキッドですら一瞬背筋に冷たい物を感じた。
「オヴェリア様……あれは、」
枢機卿ではない――尋常ではないとデュランが警笛を鳴らすよりも先に。
「全員膝を付け。投降せよ。でなくばハーランドは滅ぶ」
「何を、」
言いかけたオヴェリアに。
「もしもこの地で何かあれば、すぐさまバジリスタが全軍をもってハーランドを亡ぼす」
「――」
「大方 、教会に停戦の仲立ちを頼みに参られたのでしょう。笑止。ならば仲介して差し上げても良い。――あなたの命を引き換えに」
カーキッドとデュランが絶句する。
「ハーランド王族の血を断って、停戦の証とせよ」
「……愚かな」
デュランが懐から護符を取り出した。
「気が狂ったか、ドルターナ!!」
「バジリスタは止まらぬ」
そう言ってドルターナは一歩踏み出した。
「第三皇子が途 を作った――血に彩られた2つの国の歴史の扉を開こうとしているのだ。元はサンクトゥマリアという聖母の力、その力が宿ったハーランドの大地――ズファイはすべてを知った=B王族すら知らなかった最大の禁忌の歴史≠。ゆえに、あの男は止まらない。ハーランドを奪う、そのためには手段は選ばぬ」
「――」
「王女オヴェリア、唯一のハーランドの娘。そなたが指揮をすれば兵は動こう、民も従うかもしれぬ。だがそれは同時に滅びの道だ。……選べ、オヴェリア。国を亡ぼすか? それとも己で遺恨を断つか?」
「オヴェリアに、死んで終わらせろって?」
カーキッドはもう剣を抜いている。
「……いい度胸だ。そして簡単な話じゃねぇか」
この場で全員斬り捨ててやる――今にも踏み出そうとするカーキッドを、
「私の命で、終わらせろと」
オヴェリアが制した。
「そうだ」
「ハーランドの血で断てと」
「そうだ」
「私が死ねばハーランドが終わる」
「戦争は無益だ」
「戦う事もなくなると」
「必要もない」
「民が死ぬ必要も、」
「兵が散る必要も、」
「誰が悲しむ事も」
「誰が泣く事も」
混乱はあるだろう。
蜂起も起こるかもしれない。
だが。
――だが。
「…………」
慈悲深い枢機卿の顔が、目の前にいる剃髪の男の面 に宿り咲いた。
哀しいまでの自愛の顔だった。
手を差し伸べられた。ここに堕ちよと。
堕とせと。
……また、地下書庫で見た黒い絵画を思い出した。
「オヴェリアッ」
カーキッドに呼ばれた。だがオヴェリアは彼を見なかった。
ただ一言、
「……わかりました」
そう言った。
ドルターナの面から自愛の顔が剥がれ落ちた。代わりに現れたのは邪悪と呼ぶにこそふさわしい笑みだった。
驚愕するカーキッドとデュラン、そしてマルコを他所 に、一歩踏み出したと思ったオヴェリアが。
次に向かったのは、ドルターナの元ではなく。
……天蓋を掴む。
寝台に飛び乗る――金属が悲鳴を上げる。
グイと、そこに横たわる女性を掴み。
「ならば、」
抱き抱える――喉元に白薔薇の剣を突き付けて。
「投降いたしましょう。ただし、私1人です」
「なッ」
「私の共の者たちは国事とは無関係……投降の責務はないはず」
「――」
「彼らを逃す事、それが条件です。叶わぬのならば、ここで自らの意志で果てましょう――教皇様と共に」
「……ッッ!!」
「お見受けするからに、教皇様の余命は幾ばくも無いご様子。ここで私の黄泉への共となっていただいても構わぬでしょう?」
オヴェリアの言葉に、完全にドルターナは我を忘れた。
「愚かなり、愚かなり、オヴェリア・リザ・ハーランド――ッ!! 捕らえよッ!! 全員捕らえろッ!!」
「動くなと言っている!! 私の言葉がわからぬか、ミゼル・ドルターナッ!!!!」
――教皇様、ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も心の中で叫びながら。
すっと、彼女は教皇の服の端を切った。
「条件はたった1つだ。彼らを逃せ」
そしてオヴェリアの行動を、男たちが黙っているわけがない。
……黙っているなど。
「馬鹿野郎ッ!! ざけんじゃねぇッ!!」
「姫様ッ」
「彼らが無事にこの地を去るまで、この剣は退かない」
「オヴェリア様ッ」
――あなた達ならわかるでしょう?
この場所を抜けるのは困難だと。
神聖騎士団の数、完全に袋小路に閉じ込められている現状。
それでも彼らは言うだろう。全部ぶちのめして突破すると。
例えそれができたとしても。
――……守りたい。
マルコは抜けられるか? デュランは傷を負わないか?
そして、
――カーキッド……。
あなた達――否、あなたなら、わかるでしょう? と。
混乱はまた、誰かの死を呼び起こす。
そして次は国だ。
――ハーランドは滅ぶ、かつてそう言われた。
その鍵を握っているのが自分なのだと……今ならば、オヴェリアはその意味が分かる気がした。
ハーランド最後の血を引く自分。
父亡き今、母亡き今、ずっと考えていた。どうしたらこの国を守る事ができるのかと。
国を守る事、民を守る事。
……竜を倒す旅の中、様々な死を見てきた。
この手も随分血に汚れた。
聖剣を、一体どれだけの血で染めてしまったのか。
戦ったのは聖母ではない。自分自身だ。
どんな瞬間にも、自分なりの正義があった。貫いてきた物があったと信じていた。
考えて考えて導き出す答え以上に、突発的に従ったのは己の心。
信じてきた。
何を失いたくなくて、何を守りたいか。
何が希望で、何が絶望なのか。
自分なりに小さな天秤の上で、選んできたと思ってきた。
……だけど。
選んだ道が、結果として、後の世に悪となる事だってあるかもしれない。
これは悪だとわかって選ぶ道もあるかもしれない。
歴史が最後に、白すらも黒と結果を刻み、闇すらも光と語り継がれる日が来る時もあるのかもしれない。
正義の意志も悪の意志も、多分根底は同じ事。
信じている――そして貫いているのだ。
……これ以上なく、己自身の心の声と。
真実とも呼べない、小さな欺瞞の連続の中にある、薄明かりのような――光を。
「……行って」
ギュッと教皇を抱きしめる。
「行けるか馬鹿野郎ッ!!」
「枢機卿ドルターナ!! この者たちを連れていけッ!! されど、無用な手出しをすればただでは済まぬ」
「姫様ッ、冗談ではありませんぞ!?」
デュラン様、お願いです――青の双眸を向ける。
ハーランドを守る。
……そして。
大事な人たちを守る。
今自分にできる唯一。この場所に、選べと用意された選択肢はたった1つだ。
これが唯一、全部守る事ができる方法なのだ。
「行って――早くッ!!!!」
「ざけんなッ!!!!」
「その者たちを連れて行けッ!!」
――退路を作る、この先、万が一の事があっても、逃げて。
逃げ延びて。――どうか。
枢機卿の指示で騎士たちがカーキッド達を取り囲む。
「ふざけんなッ!!!!」
カーキッドが剣を向けようとする。それをオヴェリアが叫んで制した。
「やめなさい、カーキッドッ!!!!」
「――」
「無用な殺生は禁じたはず――そうでしょう?」
オヴェリアの目から涙はこぼれなかった。
オヴェリアがその瞬間浮かべたのは、カーキッドが見た無数の彼女の笑顔の中で、最も強い笑みだった。
そしてその姿はあまりにも美しかった。
「いつまで、言ってやがる……」
唖然とした。呆然とした。その間にも両腕は抑えられて。
「は、離してッ」
「マルコ・アールグレイも解き放て。ここで無用に捕らえるような事があれば教皇様のお命はないと思え」
――マルコ、ごめんね。
無抵抗のまま、デュランはただ愕然とオヴェリアに視線を向けた。
「姫様、」
「……デュラン様、お願いします」
逃げて。
グレンに伝えてと。
争いは終わらせると。
ハーランドを取り巻くすべての不安要素。
この国を滅ぼそうとする者、この国を奪おうとする者。
――ズファイ
心の中で、オヴェリアはその男に向かって語った。
――これが私の、この国の守り方です。
あなたにできますか? 国を守る事。
王女だからこそできる、私だけができる、これが唯一の。
「連れて行けッ!!」
「姫様ッ」
「オヴェリアッ……」
3人が騎士たちによって連れて行かれる。
それはまるで、運命の本流のようだった。
流れはついに、彼女を仲間と分断した。
離れていく距離、だが視線はずっと互いだけを捉えて。
カーキッドが睨んでいる。
ごめんなさいと、オヴェリアは呟く。
扉が開かれる。
「オヴェリア――ッッ!!!!」
ああ、どうしてと、そう思いながら。
ただ無音のまま、その目を涙が伝い落ちた。
扉が閉まるその刹那、友に捧げる言葉は一つ。
「……さようなら」
崩れるように顔を落とす。
涙は止められずとも、握った剣は離さぬ。
例えたった一人であろうとも。
…………だからこそ。
白薔薇の剣は離さぬ。
絶対に、離さぬ。