『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の騎士録−

 

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 第53章  最後は、愛する者を守って

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 男の心には、どうしても消えない傷がある。
 かつて彼は、剣を捨てようと思った。
 戦う事が空しいと思った。
 守りたいと思った笑顔があった。命があった。
 ……だがそれは目の前で消えて行った。
 誰かを守るなどと、簡単には言えない。
 戦うとは、詭弁だけでは通らない。
 自分のためだけに戦えたならそれが一番楽なのだ。
 何かを想えば、それは同時に足枷となり、己の無力さを知る事になるから。
「……馬鹿野郎」
 そして、そういう強さだけを求めてきた。
 そういうものだけが強さだと思ってきた。
 一人で戦う事、一人だけで完結する事、一人だけの世界で生きる事。
 でも本当は違う――違うと知った。
 ……顔を上げる、デュランと目が合った。カーキッドは頷いた。
 振り返ると追い立てられるようにマルコが兵士の間を歩いている。彼もまたカーキッドの視線に気づいた。
 兵士は完全鎧の騎士だ。神聖騎士団とはかつて戦った事がある。彼らこそが本当の騎士だと思った。
 志半ばで散った騎士達の事を思い、カーキッドは強く目を瞑る。
 そして。
「行けるわけがねぇ」
 その一言がすべての引き金となった。
 騎士が歩みを止めるのと、カーキッドが剣を滑らせるのは同時。
 抜きかけの剣がカーキッドの剣を真正面から受け止める。火花よりも強烈な稲光が走った。
「ミリタリア・タセ・エリトモラディーヌッ!!」
 炎が膨れ上がる。空中で弾けた瞬間、マルコも兵士の足元を這うようにして陣形を描く。
「立て!! 水の翔!!」
 炎と水が交差して、騎士たちの動きを乱す。
 そこへ、カーキッドが一も二もなく絶対的な剣を振り下ろす。
 馬鹿野郎と、彼が唱える三つ目の呪文。
「後ろに来てるぞッ!!」
 デュランの叫び声をかぶせ消すかのように、
「逃すなッ!! 殺せッ!!」
 完結的な怒号が飛んでくる。
 その声に喉からあらん限りの声を振り絞って、カーキッド自身が答える。
退け――ッッ!!」
 その声が持つ意志はたった一つ。
 立ち去る事などできるわけがない。誰を残してここを逃げろと?
 そんな事ができるなら、もうとっくに傍になんかいない。
 共に行く道を選んだのだ。
 なのになぜ、ここで。
「ウォォォオオオオオォッオォォォォ!!!!!!!!!!!!」
 こんな所に彼女を残して。
 どこへ行けと言うのか?
「オヴェリアを取り戻すぞッ!!!!」
「はいッ!!」
 マルコが決死で叫ぶ。空中に円を描きながら、同時に壁に白墨を走らせる。
「数が多すぎる」
 デュランの焦りは取り合わない。
「知った事かッ!!」
 全員斬る――そう思った刹那、脳裏に彼女の声が響いた。
 無駄な殺生はしないでと。この人たちはただの兵士なのだと。
「馬鹿言うなッ!!」
 逃げて、と。
「くそったれがッ!!」
 刹那、爆風に吹き飛ばされる。
 ハッと顔を上げる、倒れた騎士たちの向こうに、法衣の一団を見た。
「まずい」
 デュランが叫んだ。
「マルコ、守りの陣をッ!!」
「え!?」
 だが遅い。
「――」
 教会が組織する魔術師団。
 仲間の騎士がいるにも関わらず、彼らは術を解き放った。魔術の塊が狭い廊下に充満する。
 白雷と。
 灼熱と。
 轟音が。
 窓から噴き出し、ただただ3人の目の前に迫り。
「ディア・サンクトゥスッ!!!!」
 デュランの詠唱が間に合わない。
退くぞ、カーキッド!!」
「お前らだけで行けッ!!」
「馬鹿を言うなッ!!」
 単身で魔術の海の中に飛び込もうとする男をデュランが間髪殴り飛ばした。
「ここで死ぬつもりかッ!!」
「来ますッ!!」
 また、魔術が襲い掛かる。
 相手はギル・ティモではない、ただの人間が操る魔術に過ぎないというのに。
 それでも及ばない。豪雨のように降り注ぐ魔術の先に進む事ができない。
 そして何より3人が目を疑ったのは。
「馬鹿な……」
 ……起き上がったのだ。騎士たちが。
 爆風に吹き飛ばされ倒れていた騎士たちが、完全に仲間の魔術によって身を焼かれた者たちが。地面に叩きつけられた拍子に首を折った者でさえ。
「……おいおい」
 こんな光景を見た事がある。忘れられるわけがない。
「こいつら、」
「退くぞ、カーキッド」
「しかしッ」
 噛みしめる。カーキッドは苦く、苦く、ただ果てしなく。
「……くそったれが――ッ」
 こんな事が……と、呟きながら。
 こんな、こんなと叫びながら。
 脳裏に映る、最後のオヴェリアの顔と。
 笑った顔と、怒った顔。
 ……照れた顔と。
 眠る横顔。
「オヴェリア――」
 階段を転げるように走り落ちる。



 ……どれだけ走ったかはわからない。
 ただ、無茶苦茶だった。
 逃げる道には、幾多の騎士と魔術師が襲い掛かってきた。
 亡者のようだった。
 そのすべてから、カーキッド達は必死に逃げた。
 池を抜け、門を叩き壊して外へ逃げると。
 ……一瞬の差で、敷地は魔術によって覆われた。
 完全なる包囲の魔術。
 ……雪が降ってきたのはその頃だった。
 空から降り注ぐその白は、ガリオスの地を包む魔術に当たると青く光って溶けた。
 その光で、辺りは満ち溢れた。
 やがて奥が見えないほどの青に包まれた時、カーキッドは愕然と。
 己の愚かさのみを、痛烈に呪った。

  ◇ ◇ ◇

 無になる事。
 腕を磨く事。
 泥になる事。
 ひたすら心を研ぐ事。
 己自身が切っ先となり、いつ何時でも戦う事ができるように。
 磨き抜くとはそういう事だと、彼は教わった。
 誰かにではない。戦う中で、風が。
 彼にささやいたのだ――一時もないのだと。
 生きている間で、心を許せる時間など、一瞬もないと。
 そして猶予もない。
 息をする瞬間に、戦うためのすべてを考えろ、逃げる時間を稼げと――。
「……姫様……」
 思考の海は、泥のようだった。
 顔を上げると、同じように泥をかぶったマルコが泣いていた。
「泣くな」
 デュランが叱咤する。
「……姫様は大丈夫だ、だから泣くな」
「でもッ……でもッ……」
 オヴェリアはどこだ? そう思ってから。
「……」
 カーキッドは一度周りを見渡して、どこにもいない事に気づいて。
 ああ、と思った。
「カーキッド、大丈夫か?」
「……」
 自分がデュランにどんな顔を向けたのか、彼は気づいていなかった。
 無意識に立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。
 腕も、体も……重く。
 この重みは絶望だ。
「何なんですか、あれは」
 悲鳴のようにマルコが言った。
「あの兵士は一体……」
「恐らくは屍人。魔術によって操られている者達だ」
「屍……」
「ギル・ティモ……否、まさか教会は、」
 解き開いたのか……? 禁断の扉を――デュランの呟きは、カーキッドの耳を静かに通り過ぎて行った。
 どうでもよかった。
 今ここにあるのはたった一つの結果。これだけがすべてだ。
「……オヴェリアを取り戻す」
 立ち上がる。
「待て、カーキッド」
 止める声など関係ない。
 もう何もかも。
「今行っても無理だ」
「じゃあどうしろってんだッ――!!」
「……」
 樹木に拳を打ち付ける。血が滲んだのに痛みを感じない。
 辛さだけを感じる――悲しみだけが。
「犬死するぞ」
「……」
「カーキッド、……気持ちは同じだ。このままにはできぬ……こんなッ」
 デュランもまた地面に向かって苦渋を吐き捨てる。
 三人は夜明けに気づかなかった。
 もう彼らの目に映っていたのは、ただ、
「教会は――」
 地下にあった蟲の施設。
 教皇ウリアの変わり果てた姿。
 神聖騎士団と、魔術師団。
 囚われたオヴェリア。
 罪を赦し、人を赦す――教典に載っているというその言葉を思い出す。唯々《ただただ》、虫唾が走る。
 バジリスタと教会は繋がっているのか。
 第三皇子の蜂起によって、ハーランドは今、未曽有の危機に瀕している。
 それを止めるためにオヴェリアは残った。
 己の命を引き換えにして国を守らんとするために。
「……馬鹿野郎」
「とにかく、体制を立て直す。そして一刻も早くオヴェリア様をお救いする」
 そして、それとは別に闇の魔術が迫っている。
 魔導士ギル・ティモの最終目的は?
 そして黒い竜の行方は――。
「……」
 カーキッドは手元を見た。腕はしっかりと黒い剣を握りしめていた。
 竜の血を浴びて黒く染まった剣。
 もう一度強く目を瞑る。
 脳裏に、あの言葉が蘇った。
 カーキッドをずっと縛り続けてきた、あの言葉。
 だが同時に、今こそ彼は思うのだ。
 ……ようやく、意味がわかったと。

 ――お前は生涯剣によって生き、剣によって生かされる。
 ――そして最後は、己が戦う本当の意味を知り、

「……ああ、」
 誰にともなく彼は呟いた。デュランが無言でカーキッドを振り仰いだ。
「オヴェリアを助ける」
 ――守る。
 あの時の預言者に向かって答える。
 必ずだ、と。

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