『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の物語−

 

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 第56章  賢者の行方 −1−

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「準備はいいか?」
 青年の声は歌のようだと、最初に言ったのは誰だっただろうか?
「はい」
 少年の顔には戸惑いが浮かんでいる。だがそれは決して恐怖ではない。
 恐怖が過よぎるその前に、手綱を強く打つ。
 そこに込める思いはたった一つ。
 ――走れ。
 馬は助走から、徐々に宙を飛ぶように走り方を変える。
 真空を滑って行く――その鼓動はやがて無になる。
 無になったその瞬間なのだ。息をする事さえ忘れて、ただ前だけを見据える事ができるのは。
 風が唸る音は、神を呼ぶための産声か。
 果てしなく続く大地は、頭上に広がる天が落ちてきた時に受け止めるためだけの物か。
 形はどこにある? 見えるのは、遥か遠くに描かれた地平線の一文字。
 そしてその果てに黒い塊が見えたのは瞬間的な事だった。
「マルコッ」
 返事をするより先に、少年はもう詠唱を始めている。
 同時に、馬を操る青年も然り。
「――」
 問題は最初の一撃。それだけで決まる。
 小細工はしない、やるとしたら真正面から。
 そういう道を歩んできた。
「開門」
 マルコは通り過ぎて行く空気の渦を目がけて言葉を解き放った。

  万物の神ヘラ
  太陽の神ラヴォス、闇無の神オーディーヌ
  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を捧ぐ
  わが真実の名はマルコ・アールグレイ
  我、悠久の時、先人オルカ・トルカ・マサライアの血を受け継げし者なり

「ラウナ・サンクトゥス、ラウナ・サンクトゥス」
 黒い塊はやがて完全に人の姿となって2人の目に飛び込んできた。
 群衆だ。
 それもただの人の群れではない。馬にまたがる鎧の塊だ。
 剣が揺れている。
 魂がこぼれている。
 風はどこか完璧なまでの冷たさの中に。
 粉塵だけが、そこに異質を物語っている。

  大地との契約、御剣の証
  糾うは十字架の梢
  切り刻むは天宝の縁
  我ここに魂を刻む、我ここにこの名を刻む 
  須らく一輪の結束にて
  抗うは自責の抗
  今我に答えよ、願わくば
  結晶の石、今ここに解かれたし

 鎧の一兵が、突進し来る馬に気が付き声を上げた。
 だがそれより一瞬早く詠唱が舞った。
「ミリタリア・タセ・エリトモラディーヌ」
 天に現れたるは炎の鳥。
 炎は太陽の光を受けて金色に輝き、まっすぐ兵士達に向かって飛んだ。
 神々しいまでの光だった。
 術者は顛末を見る事なく行く先を急転させる。
 急激な方向転換に、引力が逆方向に生まれる。半身が吸い寄せられるような凄まじい力だった。
 その力を少年は見逃さなかった。沸き起こった風目がけて、そっと最後の言葉を置き放った。
「走れ、水の翔」
 下から噴き出した水は、今度は雷のように、大地を四方八方飛び散る光となった。
「デュラン様ッ」
 術の規模を見定め、マルコはハッキリと動揺の色を見せた。
「失敗です、すいません」
「充分だ」
 術のかかり具合が思ったより弱かった。デュランが次の詠唱を始めている。
「掴まれ、走るぞ」
 しかしこれで完全に敵兵に目を付けられた。走る2人の後に幾重もの追手がかかる。
 敵は十字架の紋章を背負っている。意味成すところはただ一つ。
 隣国バジリスタの兵。
 チラと確認しつつ、一層デュランは馬の速度を跳ね上げた。
「頼むぞ」
 マルコも飛ばされないようにデュランにしっかり捕まりながら、何とかもう一度陣を描く。
 走る、走る、走る――。
 並走する大地と風、太陽の光は脇へと逃げて行き、地平線は追いつきも遠のきもしない。
 背後を駆ける兵士の波は、やがて2人と馬を諸共に飲み込まんと気配を膨らませた。
 その瞬間、デュランは後ろ目がけてもう一度炎を解き放った。敵兵から無数の矢が放たれたのは同時。
 何とかマルコが水の術を放ち壁の代わりにしようとしたが、水力が弱い。水を貫いて矢は2人目がけて飛んできた。
「ディア・サンクトゥス!!」
 炎の術の脇を縫って、さらに矢が襲い掛かってくる。
 風を追い越して飛び来る矢に、デュランですら一瞬焦りの表情を見せたその刹那だった。
「突撃――!!」
 前方より突然兵士が飛び出した。
 剣を振り上げ走り来る新手の兵士達は、デュラン達の脇を抜けて背後の兵士に向かって突進した。
 彼らが背負う紋章はスズラン。
「デュラン様!!」
 スズランの兵士の中に飛び込んだデュランとマルコに、1人の騎士が駆け寄ってくる。
「ご無事ですか!?」
「何とか。だが予想以上の兵士がこちら側に」
「大丈夫です。後は我らが」
 そう言って笑うその男。スズランの紋章を背負う騎士団の団長、その名はトマス・ランドルフ。
「騎馬隊、行くぞッ!!」
 ランドルフを筆頭に、後ろに控えていた全軍が丘の下手から現れた。
「デュラン様達は東側へ」
「承知!!」
 促されるまま、デュランは馬を東へ向ける。
 東側は少し高台になっている。ここからは戦況の全貌が見えた。
 敵兵は南と北に分裂している。デュランとマルコを追ってきた兵士は南側でランドルフの軍勢と交戦中。敵兵の半分は、デュランとマルコの出会いがしらの魔術によって失われている。
 残った者達が南側に合流をはかろうとしているが、西側からレイザランの第二部隊が突撃をする。
「もう一度行きますか?」
 マルコに問われたがデュランは首を横に振った。今2人が行っても敵味方が入り乱れている、もう魔術は使えない。
 後は武運を祈るのみ――だが勝敗は明らかに決していた。
「デュラン様」
 案の定、それほど間を置かず敵兵は壊滅。ランドルフの側近が二人の元に駆けてきた。
「西に陣を移します」
「了解」
 デュランとマルコはレイザランの軍勢と共に西に向けて走り出した。

  ◇

 2人がレイザランの兵に遭遇したのは南へ向かう途中の事だった。
 兵団を率いていたのはランドルフ。デュランはもちろん、ランドルフも突然の再会に驚いた。
 ……デュランとランドルフが会ったのは数か月前、レイザランで起こった騒動の際だ。
 レイザランの領主ラーク公の子息に掛けられた呪いを解くため、デュランはその地に赴いた。そしてそこで、思わぬ事件に遭遇した。
 獣と化したラーク公と、公が最後に訪れた場所――フォルスト。
 あの時は最終的にラーク公を倒し、赤子の呪いを結界で封じる形で何とか事を収めた。
 デュランが発った後レイザランがどうなったのか……再会してデュランが最初に聞いたのは、赤子とラーク公の妻の安否。呪いが再び掛けられた様子はなかった。
「しかし、先に敵兵を見つけられて良かった。あの規模で普通に衝突していたら厳しかったかもしれません」
 そして今に至る。
 敵兵を見つけたのは、デュラン達が南に下っている最中だった。その時は気づかれぬようにやり過ごしたが、今思えば天の采配だったとも言える。
「また助けられました。本当に、ありがとうございました」
 西に陣を移し隊列を整える中、ランドルフはデュランとマルコに頭を下げた。
「頼まれていた書状ですが、戦闘の前にすでに出立させました。ハーランド本陣にいるグレン様の元に、確かに届けさせましょう」
「かたじけない」
 デュランは頭を下げる。
 久しぶりに見るランドルフの容姿は、目立って変わった様子はないが、以前より堂々として見えた。
 領主の死、残されたテリシャと幼い息子……。
 彼らの呪いが本当の意味で解けるのは、術者が滅びる日ではないのかもしれないとデュランは思った。
 その術者を追いかけて、デュランも今日まできた。
 思えば長い旅だったと、彼は遠い空を眺めながら思った。
「これからランドルフ殿は?」
「とりあえずハーランド本陣からの指示を待ちます。しかし、このような所までバジリスタ軍が入り込んでいるとは。戦況はどうなっているのか」
 最前線はどうなっているのか――それはデュランも気にかかる。国境は突破された。グレンが率いるハーランドの本陣はどうなっているのか? まして全体の戦況は?
 だがそれよりも先に、デュランとマルコはどうしても行かなければならない所があった。そのためにここまでほとんど休む事なく走ってきた。
「長居できぬ事、申し訳ない」
「もう行かれるか」
「ええ。一刻の猶予もありませんゆえに」
 礼を言い、再会を誓い、デュランとマルコは再び馬上の人となる。
 食料も多少分けてもらったが最低限だ。重量を課して速度を縮めたくはない。
 目的の場所は、ジブソフィラ。
「気を付けて」
「ランドルフ殿も」
 友に別れを告げて、2人は再び走り出した。
 左に落ちて行く太陽があった。
 まだ充分日は高い。落ちる前に行ける所まで行かなければいけない。
 地平線の向こうに山々を見た。あの山は旅の途中でも見たのだろうか?
 背中にいるマルコの事を思う。
 レイザランから始まった旅は、フォルストに至り、その後マルコに会った。
 出会いの場所、ジブソフィラ。
 そこには一人の老人が待っている。
 ――レトゥ殿……。
 マルコは今どんな思いでいるのだろうかとデュランは思う。
 師匠に会いに行く――マルコにとってレトゥは親同然だ。
 思えば、デュランにとっての師も同じだった。
 西の賢者ラッセル・ファーネリア。幼い頃拾われて以来、色々な事を教わった。
 地平線を見ながらデュランは思う。……まだ自分は、何かを師から教わっているのではないかと。
 師はもうこの世にはいない。
 死しても思いは生きているとよく言われる。以前はその言葉の意味がよくわからなかった。
 だが……まだ自分は師を追いかけていて。
 ――師匠……。
 最近デュランは思うのだ。師の仇を追って旅を始めた当初はこんな事思いもしなかったのに。
 越えたいと――師を越えたいと。
「大丈夫か、マルコ?」
 返事はなかった。だが眠ってはいない。
 何か思うなら越えろ、……背に掴まる小さな力に、デュランは心の中で言う。
 まだお前は幼い……だからこんな事思わないかもしれない。
 だが、デュランはもう一度思う。
 ……超えて行かなければならないのだ。
 それが、師と弟子に定められた運命――前を行く者と、追いかける者の運命だ。

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