『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の物語−

 

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 第56章  賢者の行方 −2−

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 おかしな予感はあったのだ。
 もしかしたら、いないのではないかと。
 デュランの予感が当たったのはジブソフィラに着いて間もなくの事だった。
 まっすぐ森に向かった。だが2人が辿り着いた先に、待ち人はなかった。
 レトゥ――かつて水の賢者と呼ばれた老人。
 森に佇む屋敷はひっそりとしており、呼びかけに答える声はなかった。
 着いた時には太陽は完全に沈んでいた。それでも微かに残った光の余韻で、辺りが見渡せなくもなかった。
 そして、見えた光景の中に、人の気配は一切なかった。
 マルコが裏庭へ走るのをデュランも追いかけた。裏戸の脇にある茂みの中から鍵を見つけ、震えるように錠を外す。
 中に入ると湿り気を帯びた空気のみが充満しており。
 沈黙が、入り込む隙もないほど完全な形で敷き詰められているようだった。
 無言の中に拒絶を見た、一瞬デュランも進む足を躊躇する。
 だが――何だこの空気は?
「先生ッ!!」
 マルコが駆けて行くのは書斎の方だ。
 屋敷の中には光もない。
 人の気配も一切ない……だがどこはかとなく、デュランは違和感を覚える。
 その違和感に背中を押されるように、デュランもレトゥの書斎に向かった。
 だがやはり誰もいない。
 寝室も調べる。
 人がいなくなったのは、今日や昨日ではない。
「先生……皆は、」
 屋敷の中を全部見て回る。
 だが答えは同じだった。
 以前来た時、ここは人で溢れていた。
 レトゥに教えを乞うために集まったたくさんの子供たち。そのはしゃぎ声と笑顔、喧騒にはデュランも最初は驚いた。
 そして同時に物凄く嬉しくもあったのだ。
 レトゥが子供たちと共にいる事、そこで子供たちに世界の理や日常の些細な事まで説いている。
 土を耕し畑を広げ、草と共に学び、風の意味を教える。
 空はなぜ青いのか、そして海はなぜこの世界に生まれたのか。
 大地と天、生命の理。
 誕生と滅び――始まりから終わりまで。
 デュランは、レトゥが子供たちにそうした事を一つずつ丁寧に教えているのを聞いた。
 ああこの人は……水の賢者と呼ばれた方だと思った。
 かつてガリオスで見た事があった、自分の師と並ぶもう一人の賢者。
 彼がまだこの世にいる事が、デュランはひどく……嬉しくて。
 同時に思ったのだ、すべてを許そうと。
 レトゥに対して抱えていた想いがあった。だがそれは単純に自分の中だけの問題だ……行き場を失った思いを、レトゥにぶつけてはいけないと思った。
 ……そう思ってきたのだ。
 だが――。
「誰も、いません」
 マルコの声は小さくか細かった。
「広間も片づけられてる……」
 子供たちが勉強を教わる時に席を並べていた所だ。だがそこにあった物はすべて隅に片づけられ、ガランとした空間だけがそこにあった。
「何で……」
 どれくらい経っている?
 レトゥ様――その名を呟いた時、マルコがガクリと膝を折った。
「大丈夫か!?」
 慌ててデュランが声を掛けるが、マルコはしばらく立ち上がれなかった。
 無理もない、ガリオスからほとんど休まずにここまで走ってきた。
 馬に積んできた荷物から水と、レイザラン軍に分けてもらった食料を紐解く。
 ナイフでパンを切って渡したが、マルコは一口だけ口づけて黙り込んだ。
「町で話を聞いてくる。お前はここを頼む」
「いえ、……行きます」
「お前は屋敷の中を。何か手がかりがないか探してくれ」
「……」
 少年はまたしても黙り込んだが、やがて小さく頷いた。
 念のために戸締りと、守りの陣を張るようにと告げ、デュランは町に向かった。



 しかしレトゥは一体どこに――?
 マルコを一人で屋敷に残しておくのは少し不安だったが、そうも言っていられない。今は一刻の猶予もない。
 こうしている間にもオヴェリア様が――そう思い、デュランは駆けるようにして町へ向かった。
 町にはまだ光があった。商店街は閉まっているが、酒場は煌々と明かりを灯している。
 この町を離れてから数か月。町並みが少し変わった。
 デュランが最後に見たジブソフィラの姿は、まだ復旧の最中。建物の建て直しが始まり、再開した商店が町を盛り上げていたものの、道も町並みもこれほど整ってはいなかった。
 蟲によって襲われる前より、もしかしたら今の方が大きくなったのかもしれない。
 あの頃なかった酒場に入る、中は人で溢れていた。
 そしてレトゥの事を尋ねたが。
 ……皆が口を揃えて言った。知らぬと。
「レトゥ様の行方だ……いつから姿が見えなくなった? 心当たりはありませんか?」
 曖昧な答えしか返ってこない。
 おかしい。これは明らかに変だ。
 酒場を出て、町の中心部へ向かう。町長の屋敷があったはずだ。
 だがそこでも、レトゥの事を尋ねると半ば門前払いのような扱いを受けた。
 デュランの知る限り、レトゥは町の人達に慕われていた。
 だからこそ親たちはレトゥに子供を預けた――町の内外問わずたくさんの子供たちが、信頼の上に彼の元に集まってきていた。
 なぜ……? なのに今は誰もがレトゥの事を話すのを避けているように見える。
「……」
 デュランの脳裏に、ある言葉が過った。それはマルコから見せられた手紙に書かれていた物だ。
 ……何にせよ、今は一刻も早くレトゥを見つけ出さなければならない。
 もう一度町の中心街へ向かう。何とかして、手掛かりを掴まねば。

  ◇

 念のために守りの陣を張るように――そう言われたが、マルコはただ茫然と屋敷の中にいた。
 レトゥがいない――そんな事考えてもいなかった。
 ただ、どんな顔をして会ったらいいのか、それだけを考え続けていた。
「先生……」
 ずっと一緒にいた。
 両親が連れ去られ、生まれた村がなくなってから。
 それからずっと……片時も離れる事なく。
 ずっと一緒だった。
 あの日、この地を去るまで。
 オヴェリア達と旅に出る事を決めた日まで。
 ……マルコにとっての唯一の人……それがレトゥだったのに。
「……」
 旅の途中で手紙も書いた。マルコの元に返事が届く事はない。一方通行のやり取りだ。
 最後に書いたのはハーランドの王都に着いてから。
 旅の経緯と、王城の凄さを綴った。
 竜の事も書いた。
 怖かったと、恐ろしかったと。
 自分は何もできなかったと。
 どれだけ綴っただろう……自分の無力さと、未熟さと。
 まっすぐに戦って行く仲間の姿を。
 ――仲間……。
 そう呼んでもいいだろうか……? 信頼してくれている……こんな未熟な自分を。
 答えなければならないと、そう思ってきた。
 ……その思いも綴った。
 そしてその手紙はまだ出せずに鞄の中にしまってあった。
 子供たちはどこに行ったのだろう? あの時はちゃんと話せなかった。でも次に会った時は、きちんと話そうと、恐れないで自分から歩み寄ろうと――。
「……」
 泣いている場合ではないのだ。立ち上がれと足に命ずる。
 そしてその涙が一つの言葉を蘇らせる。
 それは、鞄に入っているもう一通の手紙。
 レトゥに宛てられた手紙……送り主はマルコではない。
 アンナ・アールグレイ――マルコの母だ。
 ガリオスの地下書庫で見つけた師の本に挟まっていた手紙。
 手紙を開いたのは、ガリオスを発ちこの町に来る途中。
 母の文字かはわからない。母がどんな文字を書いていたのか覚えていない。
 ただ、かつてレトゥの弟子だったという母が師に宛てた手紙には……たった一言だけが綴られていた。
 その言葉がずっと焼き付いている。
「先生……」
 膝に力を込めて立ち上がる。手の平を強く押し込まないと、足は体を支えてくれなかった。
 よろけるように立ち上がった時、不意にマルコは振り返った。
 書斎がある方、突き当りを左に折れた所だ。
 真っ暗だ。だがうすぼんやりと輪郭が見えた。
 え? とマルコは呟いた。
 誰かが立っている。
 デュランだろうか? 声を掛けようとした刹那、
「マルコ」
 裏口の方からガタガタと音が湧き上がった。
「デュラン様?」
 驚いて音の方を振り返り、改めてもう一度書斎の方を振り返ったが。
 その時にはもう、人影はなくなっていた。
「先生……?」
 まさか今のはレトゥ? 裏戸の鍵を開け、もう一度マルコは屋敷中を探したが……やはりレトゥの姿はなかった。
 人影を見た事はすぐにデュランに話した。
 レトゥだったのかもしれない――そう言いながら、だがマルコはその輪郭は師の物ではないような気がした。
 レトゥよりも長身で……。
 結局何もわからないまま、2人は朝を迎える事となった。

  ◇

 デュランが目を覚ましたのは、人の気配からだった。
 昨晩は食堂の隅でマルコと仮眠をとった。
 人の気配は裏口からだ。
 立ち上がる時、不思議と体は痛まなかった。
 裏戸の向こうに気配はしたが、物音はしない。デュランも音を殺して戸口の脇に立つ。
「どなたか?」
 一枚板で作られた扉の向こうから、後退りするような音がして、デュランは錠を開けた。
「あ……」
 まだ空は明けきっていない。太陽が世界に現れる一歩前。
 しかし空は白んでいる。視界は夜を思えばもう充分だった。
 見覚えのある女性が立っていた。以前ここに、レトゥと子供たちの世話に来ていた女性だ。
 女性はデュランの姿を見て凍り付いたように固まった。デュランはニコリと微笑んだ。
 マルコもおぼつかない足取りで現れた。女性とマルコの目が合った。
「ああ……」
 女性の口からため息とも嗚咽とも言えない、まるで魂が抜けるような音がして。
 やがて女性はマルコの腕を引いて抱き締めた。マルコは驚いたようにデュランを振り仰いだ。

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