『 白薔薇の剣 』

−最後の王女の物語−

 

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 第56章  賢者の行方 −3−

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 食器棚は埃が被っていた。
 戸棚の中に食料はほとんどない。
 ただ引き出しの中には、以前と変わらず、紅茶の入ったアルミ缶がしまわれていた。
 中にはレトゥが気に入りだった紅茶葉が。そっと香る懐かしい匂いに、マルコの心が揺れ動いた。
 嬉しさと……同時に、泣きたいような切なさに襲われて。
 蓋を閉ざす。ああ、レトゥはここにはいない。
「町で神父様がレトゥ様の行方を探しているという話を聞いて……ここにお見えかと思って……」
 女性は2人のために温かいパンとスープを用意してくれた。デュランは心から礼を言い、マルコもそれにならった。
「マルコちゃん、無事で良かった……レトゥ様がずっと心配してみえていたのよ」
 マルコは女性の名前をよく覚えていなかった。
「レトゥ様はどうされたのですか? 昨晩町で聞いても、誰も知らないと申される」
 スープを一口飲み、デュランは女性に尋ねる。一刻の猶予もないが、焦りを顔には出さなかった。
 女性はしばらく黙り込んだが、やがて言いにくそうに口を開いた。
「レトゥ様は数日前に……突然姿を消されました」
 数日? とデュランは尋ね直す。屋敷や外の状態から見ると、とてもそうは思えなかったのだ。
「1か月ほど前、川の向こうにある町が蟲に襲われて。町は大変な被害に遭いました。……その蟲は、ジブソフィラを襲った物なんじゃないかと。こちらから飛び火したに違いないと言われ……」
「……」
「原因は……レトゥ様なのではないかと……」
 マルコが顔を上げる。
「そんな、」
「最初は町の者達も皆レトゥ様を擁護していたんですよ。レトゥ様は関係ないと。森の傍に住んでいると言っても、たった一人ですべてを把握できるわけがない。でも……神聖騎士団が現れた事と、マルコちゃんが連れて行かれた事もあって、……あれからね、少しだけレトゥ様に対して皆疑問を持つようになったんです。あの人は一体どこからきたんだろう? って。レトゥ様がマルコちゃんと一緒にこの町にきたのは2年か3年くらい前でしょうか……。偉い魔術師様だ、学者さんだと簡単に受け入れてしまったけれども、本当に良かったのかって」
「……」
「私や、この学び舎で働いていた他の人は、レトゥ様がどれほど偉大な方か存じています。心血を注いで子供たちを教えていた、蟲の巣を見つけて困っているという連絡があれば、大慌てで向かって行かれた……私達は知ってます。でも……」
「……」
「……レトゥ様の事を不信に思った親たちが、子供たちをここに来させないようにし始めました。預けていた親たちも手の平を返すように……」
「……」
「子供たちがいなくなって……それでも私は毎日お世話に通っていましたし、いつか皆わかってくれると思っていました。今はたまたま色々重なってしまっただけで……そう思っていたのに……。1週間ほど前でしょうか、また森に蟲の卵が見つかったんです」
 蟲の卵が――デュランとマルコは戦慄を覚えた。
「幸い、孵化する前に先生が見つけて処理してくださったのですが、裏庭から見えるような所ですよ。……町の者達の不安が一気に爆発して……レトゥ様が災いを呼び込んでいると」
「――」
 何かを叫ぼうとしたマルコを、デュランが抑える。
「そしてあの方は姿を消されました。ずっと、マルコちゃんの事を気に掛けてみえました」
「……」
 ただ愕然とした。マルコは唇を噛みしめた。
「2度目の卵も、突然現れたと?」
「はい。私も見ています。前日見た時には何もなかったんです」
 デュランとマルコは、蟲がどこで生まれるのかを見てしまった。
「そうでしたか、そんな事が……」
 教会の地下深く――。
 まさかと思っていた事があった。いや、答えはすでに明白だったかもしれない。
 生物を、兵器として使う――。
 これまで何度も、捻じ曲げられた生命を見てきた。
 蟲は然り、人の頭が付いた双頭の犬。人の体を大量に詰め込んだ化け物も見た。
 すべてが闇に通じている。悪魔のみが成せる技。
 そしてすべてが、人に災いを成している。
 人を襲う――すなわち兵器として。
 蟲は生まれると同時に人がいる所に目指し飛んで行く。まるで誰かにそうする事を教えられていたかのように、人を襲い、町を食い尽くし、それだけを望みとして、やがて果てて行く。
 最初からそう生きるように――あの教会の地下で歪んだ心を埋め込まれて?
 ギョウライチュウの変異だと言われてきたが。
 変異させたのは、人間自身か。
 そして人を食らえと命じたのも、人間自身なのか――?
 だとすれば、何たる業かと、デュランは拳を握り締めた。
 神を信じよと、祈る事の尊さを語る教会が。
 ……死へと導こうというのか。
 いいや、その一端を彼らは見ている。死を望む者が集まる名もなき町、それを食らう化け物の存在。
 その道は、一体何なのだ?
「レトゥ様の行く先に心当たりは?」
 デュランの問いに女性は首を横に振るばかりだった。
「あの方は一体……本当は何者なのですか? 本当は、あの方は――」
 それは問いかけではなく懇願だった。教えてくれと切実に願う悲鳴のようでもあった。
 デュランは迷った末に答えを渡した。
「あの方は、賢者です」
「……!」
「教会の歴史に名を連ねる賢者の一人……ここは確かに、賢者の住まう森でありましたよ」
「神父様……」
「そして、数年前突然流れてきた老人を受け入れたジブソフィラの方々の目に間違いはなかったと思います。そして……今回の件で不信に思った事も」
「……」
「誰も間違ってはいない……そう思ったから、レトゥ様は姿を消されたのでしょう……」
 これ以上、ジブソフィラの者達に不安を与えないように。
 恩があるからこそ。
「ああ……」
 女性は顔を覆った。
 デュランは彼女からそっと目をそらし、少し冷めてしまったスープとパンに口を付けた。

  ◇

 レトゥの足取りは途絶えた。行く先はわからない。
「すいません」
 女性が去った後、改めて屋敷の中を捜索している時、マルコはデュランに頭を下げた。
「なぜお前が謝る?」
「先生が行きそうな場所がわからなくて……」
 目を伏せる少年に、デュランは苦笑を浮かべた。
「私もわからん」
「ずっと一緒にいたのに……」
「そうしたものだ。なら聞くが、お前、私の趣味は知ってるか?」
「……?」
 困った末にマルコは答えた。
「……女の人……」
 デュランが咳き込んだのは言うまでもなく。
「いや……それは趣味というよりさがだ」
「趣味とは違うんですか?」
「ちょっと違うな」
 ハハハと笑い、逆にお前の趣味は何だ? と問う。
「私はお前の趣味を知らん。知っているのは本が好きだって事くらいかな」
「知ってるじゃないですか」
「趣味は読書か? ありきたりだな、もう少し面白い趣味を持て」
「え、例えば? 何ですか?」
「んー……水の魔術で町を水浸しにする事とか」
「それ、犯罪者じゃないですか?」 
「趣味は斬る事、特技も斬る事、三度の飯より斬る事が好きって奴がその辺にいるだろう」
「……極悪人みたいですね、カーキッドさん……」
 デュランとマルコ、ひと時笑って。
 そして2人は思うのだ。
「……カーキッドさんは今頃、どうしているんでしょうか……」
「……」
 残してきた男の事を。
 マルコの目に焼き付いているのは背中。
 白と青に包まれたガリオスをじっと見つめる男の背中は。
「……」
 何を、今頃思っているのだろうか。
 デュランが思うのも同じ事だ。
 カーキッドにはもう、オヴェリアしか見えない。
 結界に包まれたガリオスの地に、たった一人で残った少女。
 その命と引き換えに、すべてを守ろうというのか――。
 だから――だからなのだ。
 あの結界を解かなければならない。だがその術はデュランでもわからない。
 聖センクトゥマリア大教会を統べる総主教庁。
 万年雪が降り積もるガリオス山の麓にあるその地を結界が守っているという話は聞いた事があった。
 だが実際に見たのはデュランも初めてだった。白い光がすっぽりと覆い、近づく者を完全に拒絶する。
 音なく振り注ぐ雪さえも、触れれば音もなく青い光と共に消える。
 青は炎か。
 ガリオスは今、青と白がせめぎ合うような中に存在している。
 どうすればあの結界は解けるのか――そもそもあれは何なのか。それを知っている可能性があるとすれば1人だけ。
 水の賢者ゼクレトル・フレイド――。
「とにかく、レトゥ様の行方を探さねば」
 だから2人は急ぎこの町にやってきた。
 そしてたった一人、カーキッドはガリオスに残った。
 今一番オヴェリアに近い場所に。
 ……もしもの瞬間に、駆けつける事ができる距離に……。
 出立前、デュランは何度もカーキッドに言った。絶対に自棄やけは起こすなと。
 結界が張られた状態で万が一飛び込んでも、その身が焼かれて滅びるだけ。舞った枯れ葉が燃える時、その炎は雪よりも強い炎を立てて焼かれた。
 もしもオヴェリアの身に何かあれば――いや、デュランとマルコの帰りを待っている確証はないのだ。
 1人にさせてくれと、男が心の奥底で願っているのはわかった。
 1人で考えた後、結論が……彼の心を最後の答えに導けば。
 彼は迷わず一歩を踏み出すだろう。
 それが死出の旅路とわかっていても。
 その身が業火に包まれようとも。
 焼け落ちるその瞬間まで剣を振るい、1人でも多く道連れにして。
 ただ一人の女のために地獄に向かって駆け抜ける。
 ……オヴェリアが滅ぶ時、あの男は生きてはいない。
 デュランは心の中でカーキッドに言う。私は見届けると言ったぞ? と。
 いつか話してくれた、カーキッドが昔まじない師に言われたという言葉。
 愛する者を守り抜いて死ぬ――カーキッドはその言葉に囚われている。
 だから強さを求めた。誰よりも強く、すべてを守り切れるように。
 そして同時に男は常に死を見つめて生きてきたのだろう。
 告げられたのは死という運命だ。
 愛する者を守る、守り抜く――無様な姿で死ぬ事のないように。
 己自身が剣となり。
 己自身が盾となって。
 死にゆくために。
 ただ、一人のために。
 その道は、本当に、生きて行くための道だったのか?
 戦場を駆け抜けたカーキッドの人生。いつどこにいる時も死と隣り合わせの世界。
 だが彼が本当の意味で死に寄り添っていたのは心だ。
 戦う事は、抗う事。
 気づけカーキッド――剣は、死ぬための物じゃない。最後まで抗うための物だ。死と戦うための物だ。
 無駄に死ぬな。
 ――こんな所で。
 オヴェリアにも言いたい言葉。
 自分のために生きよと。
 生きよ――生きてくれと。
「デュラン様……?」
 見つめられていた事に気づき、デュランは取り繕うように笑顔を向けた。
「すまん、少し考え事をしていた」
 呟いてから。不意にデュランは思った。
 いつかレトゥは言っていた。この地に住まう事にした理由。――研究がしたいのだと。
 この地のみで生まれ、消えて行く1つの命を。
 幻の草――。
「そうか」
「え?」
 賭けだ。だが。
 ――黙って去るわけがない。
「一つだけ、あてがあるかもしれん」
 荷物をまとめる。
 道はおぼろにしか覚えていない。それでも森に向かって踏み出す。
 そこは命が生まれ、終わる場所。
 他で根付く事できない、生命の住み家へ。

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