『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の物語−
第56章 賢者の行方 −4−
小さく消えた。
どこまでも儚かった。
握りつぶす前に、もっと愛すればよかった。
そうすれば。
……違う道があったのかもしれない。
◇
道は険しい。そして今はマルコと共にいる。
だが歩調を緩める必要はなかった。少年はちゃんとデュランの後についてきた。
思えば自分も変わったなとデュラン自身も思う。以前来た時は、前を行く2人に離されないようにするのがやっとだった。
険しい道を歩いてきた。その結果が今なのか。
「1度だけ、先生に内緒でついて行った事があります」
息を切らして進む。鳥の鳴き声が沈黙を破って、それに乗じるようにマルコが呟いた。
「もちろんすぐに気づかれてしまって。怒られると思ったんですが……先生は何も言わなくて」
嬉しそうでもあり、悲しそうでもある。
デュランはその顔を振り返って見ようとはしなかった。
森は深く、奥へ奥へと繋がっている。
川に出るまでに時間を掛けたくはなかった。
中途半端な所で休憩して時間を費やす気にもなれなかった。
2人は延々と足を動かした。
やがて、水場に辿り着いた。ここまできたらもう少しである。小休憩をし、最後の1歩、小高くなっていく方向へと昇っていく。
……やがて辿り着くその場所。
森の奥深くにそびえ立つ大樹。それはこの地の守り神だと彼が言っていた。
その根元に。
「……」
願いは叶った。だがデュランとマルコの顔に一瞬影が差した。
レトゥがいた。
無言で立ちすくむその背中に、掛ける言葉が出てこなかった。
「……レトゥ様」
互いにもう気づいている。レトゥも背後の2人に疾うに気づいていただろう。
だが老人は振り返らなかった。呼ばれてもなお、沈黙を守ろうとした。
「先生……」
だが少年の声が老人の心を弾いた。
ゆっくりと振り返る――再会だった。
「マルコ……」
水の賢者ゼクレトル・フレイド。
杖を片方に立つ姿、面差しは痩せたと言うよりはやつれたに近い。
「フレイド様……お探ししました」
デュランはあえてそう呼んだ。
「デュラン・フランシス殿……」
どこからが喜びで。
どこからが悲しみで。
どこからが希望で絶望となるのか。
感情が渦巻く、その先がわからない。
無になる事を望むのか。
無であれと望むのか。
ならばここにあるのは何なのか?
「マルコ……」
なぜここにいるのか。
老人は少年の姿に目を潤ませる。
「デュラン殿も……よくぞご無事で……」
「先生……」
マルコの目にも涙が浮かぶ。だが彼は涙を流しはしなかった。
レトゥは疲れたように息を吐き、杖を握る手を持ち替えた。
「いつ、こちらへ……?」
「昨晩です。町で話は聞きました。また蟲の卵が?」
フレイドは視線を外し、自嘲気味に笑う。
「左様でしたか。……私がいながら、またも蟲の兆候に気づけなかった」
「隣の町にも被害が出たと聞きましたが。直後に警告はしていたはず」
「……されど、危険があったのに私も対応できなかった。非は確かに私にあります」
だがあの時フレイドは怪我を負って動けなかった。
誰にも、どうする事もできなかったのだ――だがそうは言っても、それで収まらぬ思いがある。
「マルコが戻るまで留まるつもりではあったのですが、もうこれ以上は」
「……」
「だが良かった。……もう一度マルコに会う事ができて」
巨木の前に、老人の姿はあまりにも小さく。
そしてその笑顔は。
「ここで何をされていたのですか?」
フレイドはすぐには答えなかった。
「……ピュミラをもう一度」
「……」
「結局、この草の事はわからず終いでしたな。この木の下でのみ生まれ、果てて行く草です。世に点在するピュミラの草、すべてが同じように、生まれた大地から離れる事できずに生と死を繰り返していく。巨木の下、草原の真ん中、海の砂の上、湿原……何が共通しているのかもわからない。ただ、生まれた所で咲けと言わんばかりに」
「……」
「ほら。あの時、カーキッド殿のために根ごと持ち帰った所に、また新たな命を宿している。不思議な草です」
嬉しそうに木の根元を見る老人に。
表情を変えずに、デュランは。
「ここで果てるおつもりでしたか」
「――」
「その草のように」
「……」
「あなたは死を選ぶつもりだった――違いますか?」
……フレイドは、2人を見ない。
見ずに、ただ沈黙を守る。
デュランは小さく息を吐いた。そして、「とにかく一度戻りましょう」と切り出す。
「ご相談したい事があります。いや、できるならば一緒に来ていただきたい」
「……何を……?」
「事は急を要しております。オヴェリア様のお命に関わる事」
「オヴェリア様の――」
老人が一歩踏み出した。
踏み出した事によって、マルコが立っている場所からピュミラの小さな芽が見えた。
ああ、確かに見える。
だが――同時に。
芽だけじゃない、もう一つ視界に入った物。
「――」
マルコはフラフラとした足取りで師の方へ歩く。
「マルコ」
だがその視線は師ではなく、小さな芽に。
木の根の間に守られるようにして生まれた小さな命を。
――グルリと囲むように、赤で。
「先生、」
これは、魔術の陣である。
「何ですか、これ」
見覚えのある、陣である。
「……」
フレイドは答えない。
だが答えなくても――答えないからこそ。
マルコは震えるように。
――炎の陣だ。
デュランも少年の後ろから覗き込み、
「何を、」
「……」
幻の草と呼ばれた、生まれたばかりの小さな芽をグルリと囲むように書かれた魔術。
「何をされるつもりだった?」
そしてその陣形はそこだけではとどまらない。
デュランは慌てて木の裏側へ走る。
「――」
同じ陣形が書かれていた。
炎を。
……水の賢者が。
「ここであなたは、」
「……」
「何をされるつもりだった――答えられよ、ゼクレトル・フレイド殿」
「……」
なおも沈黙を守る。
「先生……」
苦渋に染まる老人に、少年の胸に湧き上がった感情は。
悔しさだった。
「……」
マルコは鞄から封書を取り出した。
デュランは少年がそれを老人に差し出すのを黙って見つめていた。
「……総主教庁に行きました」
「……」
「そこで見つけた物です」
老人はその封書をじっと見ている。
中身は見なくてもわかっているだろう。
本当は見せたくなかった。何も聞きたくなかった。
ここに何かがある。だが素通りできるならば、そうしたかった――。
封筒の中から手紙を取り出す。
アンナ・アールグレイから水の賢者に宛てた手紙。
綴られているのはたった1つの文章。
――私はあなたを、許しません
「先生……これは、何ですか……?」
「……」
「母さんですよね……? これ、母さんから先生に宛てた手紙……、何で? これは――」
「……」
「答えてください……先生、これ何ですか? 教会の一番奥で……何で蟲が作られてるんですか?」
「……」
「教えてください先生ッ……!! 何で……父さんと母さんは死ななきゃいけなかったんですか――!!??」
「…………」
掴み掛かろうとするマルコをデュランは抑えたが。
「あなたはどこまで知っていた?」
自分の感情は抑えられなかった。
今はそれよりも大事な事がある。結界の事を問いたださなければならない。
だが――止められなかった。
炎の陣を見た。
その陣は、デュランもよく知っている。デュランこそが一番よく知っている陣形だ。
聖魔術なのだ。
デュランの師であるラッセル・ファーネリアが生み出した聖なる魔術。一般的に教会で教えている物とは少し違う、より強力な。
……師が残した形見とも呼べる、それを使って。
「地下を見たのか……」
喉から絞り出したその声は、亡者の声のようだった。這い出すように飛び出して、闇へと潜り込んでいく。
「知っていたのか、フレイド殿」
「……」
「何をどこまで――」
小さく鼻で息をした老人は、別人の顔を宿して、虚空を眺め、堕ちた。