『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の物語−
第57章 死して泣け −1−
「旅の噂は遠いこの地にも届いておりました」
甲高い音を立てて、鳥が天高く昇っていく。
樹々の間に見える断片的な空は、いつもと同じ青である。
その色は季節と空気によって多少の色の強弱はあれど。
青に変わりはない。
晴天は青。
時として光が白に見せる事があったとしても。
それはこの世界の不動の理。
「マルコが姫様の供をするとは思ってもおりませんでした。心配ではありましたが、時折送られてくる手紙を楽しみにしておりました」
だがこの場にその青を仰ぐ者は一人としていない。
ただ互いの顔と気配と。
――動きと。
ゼクレトル・フレイドはむき出しの岩場に腰を下ろした。
引きずるような足が痛々しい。
だがデュランはもっと別の物を見ていた。
そこにいる老人の――奥の奥。
見えるなら、叶うなら。
「ゴルディアに辿り着いたのですな」
黒い竜を討ち果たす事ができなかった事は、オヴェリア自身が民に向けて言っている。
そしてこの国が直面している数々の危機も。
現実、国境は破られた。ハーランド内には隣国バジリスタの軍が入り込んでいる。今こうしている間にも、どこかでハーランドとバジリスタの間で交戦が起こっているのだろう。
国境を任せてきた武大臣グレンはどうなったのか。
気がかりは数えきれないほどある――だが。
「この国の現状、あなたもご存じでしょう」
「黒い竜……そしてバジリスタの侵攻ですな」
老人は、デュランはおろかマルコの顔をも見ようとしない。
バジリスタだけではなかった――片鱗は旅の中にいくつもあった。
生きる事を諦めた者達が住まう町があった。彼らは教会によって集められたと言っていた。
最初に竜を生み出そうとしたのは教会だったと誰が言った?
枢機卿ミゼル・ドルターナは、マルコをさらい心まで覗こうとした。
ゴルディアの竜は、人の体を寄せ集めて造られたのだと。
――だが惜しむらくは、未だこれは我が求める姿に非ず。
ギル・ティモは枢機卿と繋がっていた。
そしてその魔導師は、西の賢者を殺して、闇の魔術の書物の力を手にした。
そは、人の道と完全に反するもの。
悪魔に魂を渡して力を得る技。
――得られるのは人には手に負えぬ闇。
その書物は、教会の中心の地下深くにあった。
そしてそれよりさらに深い場所に、新しき生命が生まれる場所があった。
ギョウライチュウの変異――通称・蟲=B
どれだけの人が、その存在に命を奪われ脅かされてきたのか。
「マルコ」
不意にフレイドは顔を上げ、マルコを見やった。その顔は2人が良く知る老人の顔だった。
「姫様と共に数々の試練に立ち向かってきた事、誇りに思う」
亡き両親に代わってとは、言わなかった。
その代わり老人は、マルコが握る手紙を見た。
「……ガリオスに行ったのか……」
「フレイド殿、時間が惜しい」
言葉を区切り、デュランが問う。
「単刀直入に聞く。あなたは蟲の事を知っていたのか?」
問いながらデュランは思った。
答えてくれるな、知らぬと言ってくれと。
それだけがこの場においての唯一の救いだと――。
「教会が蟲を作っていた事か」
フレイドの小さな笑みによって、音を立てる事もなく。
「……ひとえに、教皇様のお命のため」
「……」
「知っていた……ああ、私とて、無関係ではない……」
不動の青が物を言う。
世界は清浄を欲している。だが同時に、人は変革を求めている。
それゆえに反する、混沌が生まれる理由である。
57
「教皇様は、不治の病だ」
ガリオスへ行った、そしてデュランとマルコは教皇の姿を目の当たりにした。
「病、ですか」
痩せ細った体と骨と皮だけのような姿は、むしろ生きているのが不思議なほどだった。
病という言葉では違和感を覚えるほどに。
「お姿を見たのか」
デュランは一瞬ためらったが、無言で頷く。
「もう随分になる。私が教会にいた頃から、ウリア様は病に侵されていた。始まりは枢機卿の命令だ。内々で、ウリア様の病を治すすべを見つけよとのお達しが出た」
内々でという言葉に力がこもっていた。確かに、教皇の病が公に知られれば教会の権威に関わる。前ハーランド王・ヴァロック・ウィル・ハーランドが石病である事が伏せられていたのと同じ理由だ。
「最初に触れが出された頃は、まだ西の賢者も生きていた。2人で色々なすべを探した。術書も漁った。だが、病を治すどころか進行を止める事すらできなかった」
「あの病は一体……」
「わからぬ……原因はわからぬ。だが見た通りだ。教皇様は日に日に衰えて行く。まるで呪いにでもかけられたかのようだった」
「……」
「やがて枢機卿は古来より伝えられし伝承を欲した。すなわち――竜の鱗を煎じれば万能の薬に、そしてその血を浴びれば不死にもなれると」
竜の力を。
「竜を捕らえよと。さもなくば竜を生み出し蘇らせる方法を」
ギル・ティモが言っていた。最初に竜を作り始めたのは教会だったと。自分はそれに力を貸しただけだと。
「竜を復活させる手段……様々な生命の研究が成された。その過程で生まれたのが蟲という存在」
私もその研究の一端を担ったと言い、フレイドは目を閉じた。
「元々私は、生命の研究をしていた。生命の起源は水にある。太古昔、この世界は無だった。そこに雨が落ち、水が生まれ、光が生まれた。最初の生命は水の中で生まれたと言われている。ならば水はゆりかごだ。命を育み、そして守る」
かつて水の賢者と呼ばれた老人は、その顔にほんのり笑みを浮かべた。
「水は生命の源。そして我らの起源。……命が生まれる過程は我らよりも水の方がよく知っているのかもしれない」
「蟲の研究をあなたもしていたのか?」
「……それは違う、だが、否定はできん」
レトゥの顔は最初に会った時よりもどこか和らいでいた。
あからさまに凝視をしていた気がして、デュランはそっと視線をそらした。
(師も知っていた……?)
教皇のあの状態を、師であるラッセル・ファーネリアも知り得て、そして治す方法を探っていたと。
無論デュランに心当たりはない。そんな様子はどこにも見えなかった。いや違う、想像すらできなかったのだ。
教皇が不治の病にかかり、竜を使って治癒しようとしていたなど。
記憶の中にある枢機卿の姿。彼こそ真の聖人君子だと謳われてきた。だがその別の顔をデュランは見てしまった。
先日会った枢機卿の顔に、デュランはもう慈愛の欠片も見る事はできなかった。
見たとすれば、滅びへと誘う笑み。滅びを受け入れた者が見せる顔。
……何かを思いかける。忘れている何かがあるような気がした。ひと時思い出そうとしたが、何だったのかわからなかった。
「確かに私は、今まで生命の研究をしてきた。だがそれは探求だ。命はどの段階で生まれるのか、生命とはどの段階からを指すのか。そしてなぜ生命は生まれ、どこで心が宿るのか。心とは何なのか、意思が宿り、やがて死した時どこに消えていくのか」
「……」
「その過程の中で、生物の進化も理論としては構築をした。だがそれはあくまでも理論であり、原点になる生命があったればこそだ」
「進化……?」
弾みのようにマルコが呟いた。
フレイドは子供に勉学を教えるように語る。
「ある種の変異。生命が個々に持つ命の基盤≠組み替える事により、その生き物が持つ本来の力を越えた力を引き出す事ができる」
蟲はギョウライチュウの変異だと言われている。本来は羽虫と言われる、小さな昆虫だ。無論、人を襲う習性などない。
「その一つの理論をもとに、ガリオスの奥深くで生命の研究が成されるようになった。責任者は枢機卿が担っていた。そして私も……その一端に携わった」
「……」
「だがあのような物を生み出すとは思っていなかった……。あの施設の事を知らされたのは組織内でも極めて僅か。生命探求の研究に関わる者達だけだ。私の弟子も何人かが関わった」
「マルコの両親は?」
デュランの問い掛けにフレイドは一瞬沈黙した後、「知らぬ」と答えた。
「あの2人は知らぬ。ビルの研究は純粋に自分の興味から成されたものだ」
「竜を求めるならば、枢機卿はなぜ彼らに頼らなかったのですか?」
「……」
「フレイド殿」
「……誰も、知らなかったゆえに」
「?」
「ビルの研究の内容を知るのは私だけだった……誰も知らなかったのだ、彼が竜を蘇らせる研究をしていた事を……」
だから、と言葉を区切る。
「ビルとアンナは教皇の病の事も知らぬ、枢機卿の指示も、そして竜の事も」
蟲の事も。
一切何も知らない所で。
「突然囚われ、処刑された」
「……」
視界の端に光が走った。樹々の間から零れ落ちたそれは、空間を斜めに横切り、偶然にもピュミラの根元を指している。
その光の中に、デュランは一瞬懐かしい姿を見たような気がした。
「ではあの地下施設は、ひとえに教皇のために行われていたと」
「……」
「しかしあの蟲がいかなる物か、あなたとてご存じのはずだ。研究に関わっていたならばなおさら。なぜ人を襲うような物を作りだす? それは偶然なのか?」
フレイドは答えない。
蟲は人を襲う。生まれてきた時点で決められていたかのように。
そしてその研究は未だに成されている。
生命の研究? 病を治すため?
だが他方で竜も作られている。作っていたのはギル・ティモなのか。
ギル・ティモは元々はフレイドの弟子だ。
竜と蟲。
教皇の病を治すための研究と、マルコの両親の死。
すぐに答えが出る話ではないのかもしれないとデュランは思った。
もう一度大樹の方を見る。赤く刻まれた陣形に描かれた聖魔術の跡。
その時ふとデュランは思った。なぜ、マルコだったのだろうかと。
数か月前まで、マルコはフレイドと共にここに暮らしていた。
そこに神聖騎士団は現れた。
狙いはたった1人、マルコだった。
あの場にはフレイドもいた。傷を負ってはいた、それでも。
だが、神聖騎士団が連れ去ったのはマルコ。枢機卿が捕らえよと言ったのはマルコ。
選ばれた者だけが使う事を許されるやぐら見の術=\―心を覗き見られたのもマルコだけだ。
教皇の病気の事を知らされていたのはフレイド。治療の方法を模索していたのもフレイド。
竜を復活させよとまで言われ――だがその研究の第一人者であったはずのビル・アールグレイとアンナ・アールグレイは殺された。
2人の研究の事を知っていたのはフレイドだけだ。
なぜ、と思った。
あの時神聖騎士団は、水の賢者ゼクレトル・フレイドには見向きもしなかった。
それは即ち、
「枢機卿は、ビルとアンナが竜の研究をしていた事を知らなかったと申された」
「……」
「2人の研究内容を知っていたのは、あなただけだ」
2人の研究内容はどの時点で枢機卿に伝えられたのか? 処刑の後なのか?
誰がそれを告げた? ――いや、その答えは一人しかいないではないか。
「枢機卿に言ったのは、あなたなのか……?」
「……」
「ビルとアンナ――マルコの両親が、本当は何を研究していたのかを」
「…………」
マルコは凍り付くだろう。
だが、なぜか今、デュランの頭の中で1本の道が出来上がっていく。
いや、違ってくれと唱えたい。
今想像しているのは単なる極論だ。
一つの言葉を紡ぎ出す――その前にデュランは思った。それは先ほどとは反対の想いだった。
答えてくれ、違うと。
罵ってくれ、お前は愚かだと。
「ビルとアンナを処刑に追い込んだのは」
「……」
「まさか、」
あなた、なのかと。