『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の物語−
第57章 死して泣け −2−
返答がされるまでの数秒の間に、様々な事が起きたように思える。
だが結局、その場にいる者たちが息を止めただけだった。
時間が止まったように思えた。だが実際に時が止まる事はない。
例え瞬きを止めたとしても。
「……アンナだけは……」
顔を両手で覆ってしまっても。
「………………アンナだけは、と…………」
考える事を止めたとしても、放棄してしまったとしても。
否定しても。
肯定しようとしても。
「先生……」
マルコの声は掠れて擦り切れるようで。
それでもフレイドの耳に届かないわけがない。少年の声は絶対に。
「この手紙の意味を、教えてください……」
「……」
「……先生、お願いだから……」
答えないわけにいかない、それはいわば呪い。
己自身に掛けるしかなかった。そうしなければ、生きてこれなかった。
「その手紙は、彼女が書き残した物だと聞く」
「……」
「……最期に彼女は、書ふみを書きたいと望んだ。そして見張りの兵士が目を離した僅かな間に自ら命を絶った。その書は、彼女が最期に私に宛てて書いた物だ」
――私はあなたを、許しません
「その書の意味は……」
「……」
「……」
「…………2人を殺したのは私だからだ……」
息が出来ぬと、デュランは思った。
息苦しいを遥かに凌ぐ、息が出来ないと。
「ビルとアンナの研究を知っていたのは私だけだった。竜を蘇らせる――ビルからその話を聞いたのは教皇が病にかかるよりも前、初めて彼に会った頃だ。純粋な夢だった。子供の頃に見た竜の姿が目に焼き付いているのだと言っていた。私は兼ねてから生命の研究をしていた。彼は魔術師ではなかったが、よく相談にのった。彼は魔術とは違う分野から世界の未知なる部分を探求していた。方法は違えど道は同じ、目指す場所も同じように思えた」
老人の拳が小刻みに震えている。それは悲しみからか? それとも怒りからか?
「私はビルとよく話をした……他愛のない事も話した。弟子の誰よりも、話した時間は多かったのかもしれない。そして私の元へと尋ねてくるうちに、彼とアンナは出会った。そして2人は結ばれ、アンナは私の元を去ってビルの研究を手伝うようになった。やがて2人は研究のために国境のアステル近郊に移った。私も2人の所へ何度か遊びに行ったものだった」
「……」
「最後にアステルに行ったのは、マルコが生まれて間もない頃だった。それから数年、私は自分の研究に追われ、2人の元へ行く事ができなくなった。……そんなある時だ。ガリオスの私の元に、数年ぶりにアンナがやってきた。私は喜んで彼女を迎えた。アンナは1人だった。ビルと幼い息子は一緒ではなかった」
そこで一度言葉を区切り、老人はしばらくの間目を閉じた。
目を閉じれば何も見えなくなるわけではない、目の前の事象から逃れる事ができるわけではない。
……それでも、だからこそ。
「開口一番、アンナはこう言った。返してください、と。あなたが持ち去ったのでしょう? と」
今、老人の目に映っている物は何か。
「あなたが持って行った石の欠片を、返してと……」
デュランは双眸を見張る。
「私は知らぬと言った。だが彼女は私の研究室を勝手に探し始めた。やめろと言った、やめてくれと叫んだ。だが彼女は、見つけてはいけない物を……」
――大いなる、
「これは何かと彼女は叫んだ。震えていた。嗚呼……わかっていた事だ。いつかこんな日が来る事は。盗んだのは石だけではない、私はビルの元からビルの研究を――竜を蘇らせる、その術すべを、」
――間違いがあったとすれば、
「……アステルのビルとアンナの元を訪ねた時、私は偶然にもビルの研究書を見てしまった。竜を蘇らせる術だ。私はどうしても止められなかった……それはビルが長年の研究の末に辿り着いた答えだ。だがどうしても、私は……私も……」
「……」
「そのために、ビルの元にあった石の欠片を盗んだ。そして私は一人で研究を重ねた。アンナが私の研究室で見たのは、竜の雛だ。ガラス瓶の中に入った、まだ生まれたとも言えないような小さな姿。アンナは冷たい視線を私に向けた。ビルの研究を盗んだのかと。私は……答えられなかった」
「……」
「石を返してと言われた。その石には竜の命が宿っている。碧の焔石――それは、竜の化石から発掘される。発掘される時、石の大きさは様々だ。その多くは発掘の際に割れて砕ける。まともに1つの塊として発掘されるような事はまずない。だが砕けようとも、それは命だ。焔ほのおは宿り続けている。命は即ち、魂だ。魂は即ち記憶。記憶は刻んできた歴史。そのすべてが生命の形を作り、個の姿を生み出す。真実の姿を求めるならば、命のすべてを元ある所に戻さなければならない。……私が盗んだのは本当に小さな欠片だ。だがそれでも、それがなければビルの研究は終わらない。彼の夢が叶う事はないのだと言って、彼女は泣いた。ビルはまだ何も知らない、だからどうか自分の手でビルに返してと」
――あなたに、もし、まだ罪の意識があるならば。人としての心が残っているのならば。
「その瞬間、私は動転していた。何を言ったのか覚えていない。ただ、アンナの寂しそうな目を見た。彼女のあんな顔を見たのは、私の元を去ってビルの所に行くと言った彼女に反対をした時以来だった。……彼女はそのまま研究室を去ろうとした。止めたかった、だが言葉が出なかった。代わりに彼女の足を止めたのは、テーブルに置きさらしてあった数枚の書物……」
「……」
「彼女はそれを手に取った……もぎ取らなければならないと思った。だが私は金縛りにあったように動けなかった。これは何ですかと彼女は言った。そこには、綿密に組まれた構造式が書かれていた。彼女ならばすぐにわかる、長年私とビルを手伝ってきたのだ。……生命という固体が織りなす構造式、緻密ちみつに書かれた繊細な数字の羅列、だがそれを膨大に膨らませる。一点を傷つけ、そして一点を弾き飛ばす。――進化という方程式」
「……」
「そして……書かれた羅列はそれだけでは終わらない。添えるように書かれた魔術の陣形、彼女はその陣形を知らないはずだ。それは私が研究を重ね、バジリスタまで赴いて手にした知識」
「……」
「何をする気なのかと尋ねられた。彼女の顔に浮かんでいたのは寂しさでも悲しさでもない、怒りだった。違う、違うと私は繰り返した。何でもないのだと。これは人類のために……教皇様が望まれた事……。近く、その成果を実験する。アステル地方に人里から離れた広い平野がある、そこで実験が成功すれば、この世の歴史が変わるのだと……。君たち2人にも見に来てほしいと言った。だが彼女は無言で立ち去った」
「……」
「浅慮だった……今思えば、これが最後のチャンスだったのだ。この時に気づかなければいけなかった。ビルとアンナが捕らえられのは数日後だった。2人が捕らえられた理由は、恐ろしい生命を生み出そうとしている容疑からだった。2人が竜の実験をしている事は私しか知らないはずだった。だが間もなく、調査団は2人の家の傍から蟲の卵を見つける――ギョウライチュウの変異体、それを作っていたのはガリオスの地下だ。私が書いた構造式から生まれた新しい生命だ。私は枢機卿の元へ走った。なぜ2人が捕らえられるのかと。2人は蟲作りには関与していないではないかと……」
――ここに、罰を問え。
「枢機卿は、蟲を作ったのはアールグレイ夫妻だという事にすると言った。そのために2人には死んでもらうと。私はこの時初めて、本当の事を枢機卿に話した。2人が竜の研究をしている事、そして私はビルの研究を盗み、竜の生み出す事にも成功しかけていると。2人の知識はこの先、教皇様のためにも絶対に必要だ」
「…………」
「だが、すべてが布石だった。……アステルで実験を行うと決まった段階から、すべてが決まっていたのだ。アステルに住んでいたのが生物学に通じる研究者だった事、そして植え付けられた蟲の卵……。卵は孵化し、机上から生まれた変異体はこの世に姿を現した。だがそこは、人里離れた平野などではない。孵化した蟲は、まっすぐに町に向かい人々に襲い掛かった……。人を襲うようにと呪いを掛けられて…………」
――嗚呼、神よと、願い乞う。これが罰の形なのか?
「私が考案した構造式と陣形は――生命の進化と、それを意のままに操る術。20年前、バジリスタが行ったという竜にまつわる実験……結果として失敗に終わった研究を、私の形で完成させようと――」
バジリスタの研究――デュランが顔を上げる。
グレンが言っていた、20年前の国境での抗争に、バジリスタは竜を兵器として投入していたと。
だが結果としてハーランドの力が上回り、停戦の調停は結ばれたと言われていたが。
まさか、バジリスタが兵を退いたのは竜の実験が失敗に終わったためだったのか?
兵器として操る――すなわち、心を操る。
ああ、とデュランは思った。
この老人は、まさか……と。
「私が書いた構造式と陣形は、私が思うのとは違う形となって具現化した。そして、2人は死んだ。2人に掛けられた容疑は悪魔の所業だ。人を襲う蟲――それによってこの先何年も、幾多の人が命を落とす事となる。……アステルでの実験は、蟲の力がどれほどの物かを見極めるため。最初から町を襲わせ人を食わせるつもりだったのだ。ビルとアンナという生贄を用意して……。彼女は気づいていたのだろう、捕らえられた瞬間に、自分達がどういう形でその名を刻まれる事になるのかと。謀略にはめられた事を――だから彼女は、最後に書を残して」
「――」
「アンナだけは助けてくれと懇願した私を哀れに思った枢機卿は、アンナを牢には入れなかった……だが、ビルだけに大罪を着せようとする教会を……そして、私を蔑んで――――」
「……」
「2人は死んだ……結果として、最初の通り、アールグレイ夫妻は背徳者として名を残す事になった。私は生まれかけた竜の雛を処理し、石をガリオスの池に捨てた。そして教会を去った。……アステルに行くつもりはなかった。いや……どこでもよかったのだ。死ねるなら、どこでも――」