高野山 お礼参り その2


高野山お礼参り 第2回平成10年5月31日、6月1日1泊2日

再度 高野山

 平成10年3月29日、30日と第1回目のお礼参りから帰った私は袈裟をしていかなかった事に気づきました。後から写真を見てもまぁーなんて間の抜けた様子でしょう。7年掛けての区切り遍路で袈裟を忘れた事なんて一度もなかったわ、気が抜けてしまってたのかしら・・・京子ちゃんに聞いてみました。

「袈裟を忘れて高野山に行ってしまったの、まさかもう一度やりなおせって事じゃーないよね、いややでーわたしー・・・」
「そんな事ないけど、袈裟は遍路中の色々な危ない事から身体を守って下さるものだから今度は忘れない様にね・・・」

 この後5月15日からは5年も曼陀羅のバイトを続けてくれて私の公私共に信頼をおいている高橋広子さんと、私の娘と孫と楽しいハワイ慰安旅行が待っていたのです。5年もの長い間最初と変わる事なく同じ態度で仕事を続けてくれて来た事への感謝の気持ち、私が苦しい時、悲しい時いろんな愚痴を黙って本当に黙って聞いてくれた・・・歳は娘と同じだけれども時には姉のように時には姉の様に友達の様にそっと静かに側にいてくれた、そのお礼の気持ちがハワイ思安旅行となったのです。

 又、7年かけて達成した四国1400キロお遍路参り・・・そう、大きな事をやり遂げた私自身への御褒美の旅行でもありました。そして、色々な苦しい経験を乗り越え元気に前向きに生きている娘と孫も一緒に連れて行こう。女4人オアフ・ハワイ島旅行!一年も前からじっくりと計画をして同じ行くならケチケチせずに素敵な思い出一杯の旅行にしょうと充分な計画を立てました。お陰様でそれはそれは楽しい素敵な思い出を大きなトランクとそれぞれの4人の心に一杯詰め込んで帰って来たのでした。(ハワイ鳥のヒルトンホテルは、ホテルの中を川が流れお船で移動します。又その回りをモノレールでも移動し、ホテルの中でイルカと遊んだり、スノーケルも出来て近くにはゴルフ、乗馬、有名な火山もあり本当に素晴らしい絶対お勤めの所です。)

 4月高野山から帰って来て5月15日からのハワイ旅行を控え、毎日多忙な日々を過ごしながら私の胸の内にはある考えが浮かんでいました。それは1回日の高野山お礼参りが自分として何かしら納得のいかないもであったからです。袈裟を忘れたという様な問題ではないのです。四国1400キロを歩き通した私にはあまりにも高野山が呆気なかったと言う事です。私の中では実はもう答えは出ていたのですが、ハワイ旅行の件があったので急いでお礼参りを済ませなければならなかったのです。

 答えと言うのは、私の遍路手記は月間「へんろ」(伊予鉄観光開発(株))に平成5年1月号から平成7年3月までの約2年間「女三人お遍路日記」として連載されました。まだまだ歩いている途中でしたので連載は土佐の修行の道場で終わっています。それを楽しみに家内と読んでいますとお便りを下さった方がいらっしゃいます。神戸にお住まいの山本初治さんです。

 山本さんは何度もお便りを下さいました。内容は鯖大師満足行遍路記事・発菩提心求道の生涯を遍路に閉じた中務茂兵衛義教の事・平成の茂兵衛、宮崎建樹さんの事・佐々木完二さんの遍路記・多田さんの遍路記・逆打ち遍路行程表・中国新聞社記者の遍路記・・・・これらの資料をコピーして送って下さったのです。お歳は70歳位だと書いておられますが本当に有り難い事でございます。そして、この資料の中に「高野山町石道」の事がありました。

「高野山町石道の由来」

 参拝者がたどった高野山への道は山に近づくにつれてたがいに合流し、七つの道に集約されて山内へ入っていきます。その七つの道のうち表参道と呼ばれているのが町石道です。町石道は九度山の慈尊院から高野山奥の院御廟まで24キロの道のりで1町おきに町石(慈尊院から伽藍まで180本、伽藍から御廟まで36本)と36町ごとに里石(4本)が立ち並んでいます。昔は木造の町卒塔婆が建てられていましたが、文永二年(1265年)に高野山遍照光院覚教上人が石造の町卒塔婆建立を発願。当時、幕府の要人であった安達泰盛等の働きかけによって後嵯峨上皇をはじめ鎌倉幕府の有力者であった北条政村、時宗等の援助を得、200余基が発願後20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成。

 この町石は高さ3メートル弱、五輪卒塔婆形の石柱で町数とともに山上36町を金剛界37尊、山下180町を胎蔵界180尊にあて、それぞれを表す梵字と施主の名前が彫り刻まれています。町石は高野山登山の道標であるとともに天下泰平を祈願するものです。また、金剛界37尊、胎蔵界180尊を表す町石はそれ自体信仰の対象で人々は1町ごとに町石に手を合わせて登山しました。

 大師自身が踏み締め天皇・上皇・貴族をはじめ多くの人々が参拝登山した高野山の表参道町石道は祈りの道、信仰の道という事ができます。町石は完成後700年間に数度の補修で50基程が再建された以外は創建当時のままで今もなお立っており、昭和52年7月に国の史跡に指定されました。今日の繁栄社会の原点を見つめ直すためにも今一度、心あらたに町石道を踏み締め大師信仰の原点を考えてみたいと思います。

 山本さんは何枚もコピーして糊付けして大きな地図にして送って下さっていたのです。まだ土佐を歩いている頃に届いていたので高野山はまだまだ先の事だとサッと目を通して仕舞い込んでいたのですが、その事は心の記憶にしっかり残っていました。再び取り出して何度もなんども読んで見て身体中が熱く興奮してくるのをはっきりと感じました。

 (これだ!高野山町石道参り、これなんだ。行こう・・・袈裟を忘れたのも大師さんが「はるみ町石道を歩きなさい」と教えて下さったのだわ!なんて素晴らしいのだろう700年もの昔に24キロの道のりに200本の町石が信仰の道として計画され20年の歳月を掛けて作られてたなんて)感動でした。

 町石道の事は知らない人も沢山いらっしゃるのではないかしら・・・歩いて見よう、そして伝えて行こう。ハワイ旅行から帰って来るのが5月20日だからよし!5月31日と1日に歩くぞハハハ常夏のハワイから白装束の遍路変身だ!私はすぐに計画を立て、恵光院に予約を入れました
「森ですが今度は町石道を歩いて行きますのできっと遅くなると思います」

 5月31日睡眠1時間で夙川駅始発に乗り難破発の今回は急行に乗り九度山駅に着きました。ホームでサッと白装束に着替え脚半を巻き袈裟をつけ笠をかぷり金剛杖(私の杖は四国参りでなんと30センチも短くなりました。自分でも信じられません)を手にしっかりと持ちます。(さぁー夢にまで見た高野山町石道だ、気を入れて行くぞー)

 7時50分九度山駅を写真に写して出発です。とことことこ9時40分慈尊院到着。慈尊院は大師御母堂ゆかりのお寺で、大師は月に九回お母様に会いに行かれたと伝えられそこから九度山の名がついたそうです。また、奥の院御廟から慈尊院までの道のりは片道五里で往復十里と言われ、そういう所からお遍路さんの一日歩ける距離は「野道十里」(約40キロ)と言われるそうです。

 私の場合20キロ・・・ふんふんかんたんかんたん 25キロ・・・ふん丁度いいんじゃーないの 30キロ・・・うーんしんどいけど歩いたろ大丈夫よ 35キロ・・・くすんくすんしんどい朝から日暮れてひこひこひこ 40キロ‥・春美さんまだ歩いた事なし。 絶対いやの40キロでもキオールのママさんは歩いてはり、まだまだいけるとのたまっていたのだから昔の人は歩かれたのだろう。

 慈尊院の境内は、まぁーどういう事なのすごい人ひとヒトでいっぱいです。聞いてみるとこの日は「青年団連絡協議会」主催で高野山町石道を知り守り伝えて行こうと言う主旨で参加を呼び掛けられ百人位の方達が歩かれる日だったのです。偶然、私が歩く同じ日に普投ならひとっこ一人いない町石道に人が溢れて静かに歩きたいと言う気持ちも少しありましたがこれも大師さんのお計らいだと考えました。御陰様で一日中たくさんの方々に勤まされ、お水を頂き写真を撮って頂いたり町石にお祈りをあげている時は持って頂いたり、そっと横をすりぬけられたりと、本当に有り難い一日でございました。

 また、恒例の行事であるらしい幼稚園(5歳)の子供達の一行も一緒でした。この幼稚園の卒園である小学生が先頭に一列に歩きますが早いの強いの頑張るのってもうー凄い!都会の子供達や親達には考えられないでしょう・・・険しい山道24キロですよ!結局、この子達は私達大人をどんどん追い抜きお互いを助けあって早々と大門に到着して大歓声を上げていましたよ!感動です。

 まず最初の180町石は慈尊院さんの裏の石段の途中に立っていました。石段を登りつめると丹生官省符神社があります。(官省符とは年貢を免ぜられた荘園の意味だそうで丹生の免税村神社と言う事らしいです。)神社の裏に下りて行くと道が続いていて先程の同体さんがぞろぞろと歩いてはりました。とことことこ黙黙黙・・・暫く歩くとどーんと土手の上に町石発見。カメラに収めます・・・生い茂る竹薮の道ぞいに町石発見、団体さんにお願いして撮って頂きます、土手の土に半分埋まって頭には木が覆い被さって、それでも頑張って立っている町石を見つけ(可愛い奴だ!)と写します・・・

1.jpg  9時45分163町石通過(町石を見つけると合掌しお祈りします)・・・みかん畑・・・とことこ柿畑・・とことこ団体さんと挨拶を交わしたり、写真を撮って頂きながら登ります。とことこ桧の林の奥の方に(わたし、ここにいるよーー)って呼び掛けている様な町石に気づき写します。まるで保護色の様に桧の木になりきって立っている姿は健気にみえます・・・11時六本杉到着。こここで写して頂いた写真はお気に入りです・・121町石通過・・・ニツ鳥居到着


ニツ鳥居

この鳥居は、弘仁10年(819)5月3日弘法大師によって建立された。(紀伊続風土記)当時は木製であったものを慶安2年(1649)5月補陀洛院叟遍が私財を以って今の鳥居とした。高さ1丈7尺(約5.6m) 広さ2間(約4.7メートル)

 この辺でお弁当を広げられる方達もいらっしゃいます。私は実際に歩いてみるまでは安易に考えていて飲み物も、まして食べ物等は持って来ませんでした(あのーそのおむすび一つ頂けませんか)・・・さすがの春美さんも喉まででかかった言葉を飲み込んであるきます。しょんぼり・・・皆さん仲間に分かれてあっちにこっちに場所を決めて美味しそうなお弁当を広げられています。我慢がまん・・・おなかも空くし足も痛いし・・・おにぎり食べたい、おちゃ飲みたい・・・しんどいしんどい足痛い・・

3.jpg  あきらめて歩きます・黙黙とことこいきなり町石道の横にテイ・グラウンドがあってびっくりしました。紀伊高原ゴルフ場です。私もこんな景色の良い所でナイスショットしたぁーーい!

 気を取り直して歩きます。笠木峠・・1時86町石通過、睡呪不足と疲れが出てくる頃で踏ん張りどころです・小学生が追い抜いて行きます。

「ねぇーその水筒のお水を一杯頂戴」「うん、いいよ」あぁーお・い・し・い、ありがとう・・・よっちらこっちら・・・ふぅーふぅー矢立・・2時60町石通過・・袈裟掛石到着


袈裟掛石

鞍のような形をしているので鞍掛石ともいう。弘法大師が御袈裟を掛けられたともいわれ、この石からは高野山の清浄結界となる。この石の下をくぐれば長生きするとも言い伝えられている。私はちゃっかりとこの石の下をくぐったのでした。よいしょよいしょ・・・押揚石通過

押揚石

弘法大師の母公が結界を乗り越え入山されようとした時、激しい雷雨が火の雨となり親孝行の大師はこの大盤石を押し上げ母公を隠まったと言われている。両手の跡が残っているのも不思議である。

 私はどう角度を変えて見ても手の跡は分かりませんでした。後から写真を拡大して見ても分かりませんハハハ・・・この辺であなたもお茶をどうぞと言われて団体さんのお一人に頂きました。(うれしいーーー)皆さんここで小休息。元気で可愛いそして強く心優しい幼稚園の子供達を写真に撮ります。なきべそをかく小さい子には少し大きい子が手を繋ぎ皆で最後まで頑張り通した高野山の子供達の将来が目に見える様です。(孫にこの道を歩かせる勇気が残念ながら今はありませんがいつの日か歩いて欲しいと思いました。)

 しばらく歩くとなんとまぁー肩まで土に埋まってしまった町石を見つけ700年の間頑張ってきた町石に対して敬意をもって写真を撮らせて頂きました。私の尊敬する方のお便りに「人間だけを価値づける思考を疑います。生もよし死もよし 若葉更によし 先人のこの句の様に樹や草の様に大いなるものに生かされて逝きたいものです。」とありましたが、この肩まで埋もれた町石の700年の歴史を想うとこの文の意味にあらためて心打たれます。

 よいしょよいしょ・・・後ひとふんばり3時45分24町石通過・・・しんどーーーーいハアーハアー4時15分12町石通過、大門まで後15分と書いてある、どうも最後の登りの様だ・・・上の方で子供達の大歓声が聞こえて来た(幼稚園の子達が大門に到着したのだろう、凄いなぁー偉いなぁー)ハアーフウーハッフッ!登り終わると其処はいきなり道路で目の前にあの懐かしい朱色の大きな大門と金剛力士が現れました。4時30分です。山道は抜け出ましたがまだまだ先はあるのです・・・

 とことことこ大門の裏に6町石・・・前回お饅頭を頂いた店の道路の前に5町石・・神社の前に3町石、この町石は横断歩道の端に立っておりきっと交通事故にでも遇ったのだろう、かわいそうに5ケ所もセメントでツギハギされています。お山の中の町石の方がどれだけ幸福か知れません。

 とことことこ伽藍金堂の大きな右段の所に団体さんが到着した順に座ってはります、お茶の用意もされてあり私も一杯いただきました。どうもこの方達はここで解散の様子で、きっと後は自由行動なのでしょう。しかし皆さん元気そうです。この団体さん達と一緒に歩けて道も迷わずどれほど助けて頂いた事でしょう、大師さんありがとう、皆さん有り難うございました。

 いよいよ山上金剛界36町石に来ました。第1町石は根本大塔を過ぎて石段を下りた所にありました・・とことこ10町石は町中を奥の院まで通じる道路の歩道上にありました。こうやって町石を確認しながら歩いていると3月に来た時も同じ道路を歩いているはずなのに意識して見て歩くのとでは全然違うのだなぁーとつくづく不思義に思い心して町石に向かって合掌しました。

 とことことこ記憶に新しい道を歩いて前回御世話になった恵光院さんにやっと着いたのが5時40分でした。夕方までに着けたホッ 1時間しか寝ず8時から歩き続けて約10時間・・・

「こんにちは、森です」
「お疲れ様でした町石道を歩かれてお疲れでしょう」
「はい、でもとても素晴らしかったです」
「私も一度は歩きたいと思っておりますが、なかなか」
「ぜひ一度歩いて下さいねッ」と、前回も御世話になった若い修行僧の笑顔を見てさっきまでの疲れも忘れどーッと安心しました。今回は「阿字観の実修」なんてハハとんでもない、とっとと夕食を頂いてお風呂を頂いてぐっすり死んだ様に眠りました。

 翌6月1日6時起床、7時本堂での勤行(今回は外人さんの御家族と二組でした)護摩焚きは案内を持っていたのですが、先に朝食を運んで来られましたので
「あれッ、護摩焚きは?」
「はい、護摩焚きの方はもう先程終わりました。」(あッ?そうー・・なんで呼びに来てくれはらへんかったんやろ・・・勤行の後すぐだったのだろうか、まッ仕方ないかッ、おかしいと思った時点で聞きに行かなかった私が悪いのだわ)

 さぁー今回も朝の奥の院参りです。とことことこ「一の橋」の横に17町石が立っていました。橋を渡り参道を進みます。今回も木々の間から差し込む朝の光りをあぴて、何処までも伸びて天に向かって立っている杉の大木を仰ぎながら歩いていると参道を一心に掃いているおじさんがいました。(あッ、この方は前回もこの場所でこの時間に掃いてはった人だ!)今回は大きな声で声を掛けました。
「おはようございます!」「おはようございます」

「私、3月にも来たのですが、その時も此処でお掃除してはったんですよニッコリ」
「はははあーそうですか」前回、声を掛けられなかったのでなんだかホッとして歩きはじめました。とことこ ふと気づくと苔むした町石が立っていましたその横に「史跡 高野山町石」と立て札もありました。前回は気づかなかったのです。そこから先も町石は立っています。武田信玄・勝頼墓所の前に一つ、結城秀康の石廟の前に一つ、・・と写真を撮りながら又写して頂きながら奥の院ご廟まで町石を確認してお参りしました。参道では町石道参りの加古川市の八田洋子さん達と出会い思い出の写真を後日送って頂きました。合掌

 こうして九度山から奥の院までの高野山町石道(約24キロ)山下180町胎蔵界・山上36町金剛界を歩いてみると、お山の中の町石は700年の間、お陽さまにあたり木々や葉や土に守られなんとなく幸福そうで、町の中の町石は事故に遇ったり歩道に埋めこまれたりで何となく哀れで、「一の橋」からの参道の町石は千年杉と日本史を担ってきた人々の墓の並ぶ中、身体全体を苔に覆われ威厳をもって堂々と立っている様に感じられました。

2.jpg  弘法大師御廟をゆっくり御参りして(大師さん、さようなら、ありがとう・・・)帰りの路につきます・・・とことことこ...御廟橋でビシッと決めて写真を撮って頂きました。橋板二枚目に立ち脚半を巻き、袈裟を掛け30センチも短くなった金剛杖を持ち菅笠を被り、後ろには千年杉と参道そして奥には御廟が見えています四国88ケ所徒歩遍路結願お礼参りの最高の記念写真です。

 とことことこ歩いて来た道をゆっくりゆっくり戻ります・・・金剛峯寺に上がり本堂でお茶を頂き、長い廊下を歩いて豊臣秀次が切腹した柳の間、狩野元信・深幽・探斉等の襖絵を見て回り、蟠龍庭(この庭園は奥殿を中心に240メートルにも及ぶ我が国最大の石庭です・全面に京の白川砂を敷きつめ、青海波大雲海を描いてあり、組まれた名石は大師練行の聖地四国の霊石です。)を眺め大きな大きな台所を見て回りました。中でも200人分を炊けるお釜を見た時は(大変だったのだろうなぁー)と当時の修行僧に同情してしまいました・‥とことことこ・・


 朱色の大きな根本大塔の大日如来様にもう一度ゆっくり御参りして入り口の右段に座り写真を撮って頂き帰りの路につきます。とことことこ・・・大門・・・今度も美味しい釜飯を食べました。今回は歩かずにバスに乗り高野山に着きケーブルに乗り極楽橋へ・・そして大阪へ。

 高野山とは四季を通して何度もなんども訪れたいと人を魅了して止まないはかりしれない歴史があります。あまりの大きなものを背に感じて宇宙の点の自身を知って眩暈がしました。

「終わった・・・春美、おわったね7年掛けた四国88ケ所1400キロ徒歩遍路、そして高野山町石道参り、ヤッタネ春美・・いろんな事を経験して沢山の人に出会って泣いて笑ってとてもとてもとても楽しくて有り難ううありがとう四国の山よ川よ海よ

わたしははんとうにかわりました四国88ケ所徒歩区切り遍路万歳!

神様に 大師さんに 合田和厚さんに 細川京子さんに 宮崎建樹さんに キオールのママさんに 宿泊先の方々に 遍路で出会った方達に お客様に バイト達に お友達に家族の者達に感謝致します。ありがとうございました。

そして・・・・今、新しい遍路が始まったのかもしれない・・・・・合掌

1998年9月 森 春美


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