感謝でいっぱい
       夫婦で登る日本百名山の完登

                               倉元孝幸

199610月に瑞牆山登山をきっかけにはじめた、「夫婦で登る日本百名山」も2010828日、甲武信岳を最後に完登しました。100番目の登山には、山と温泉の会OB17人がマイクロバスを仕立てて一緒に登山し、完登を祝福してもらいました。山頂で乾杯。山小屋では簡単なセレモニー。みなさんに祝福のことばや記念品をいっぱいいただきました。15年の長い期間と、日本全国を股にかけた登山であったので、感激でいっぱいです。 

日本百名山とは

 「日本百名山」は、作家であり登山家であった深田久弥(ふかだきゅうや)氏が大正から昭和のはじめにかけて日本全国の山に登り、100の山を選定して1964年に新潮社から出版した本です。同年に読売文学賞を受賞。 その山の持つ歴史、言伝え、人々との係わり合い、山の風格が紹介されています。
日本百名山は公的機関が選定したり、投票を集計したものではなく、作家深田久弥氏が個人的に選定したもので、その点では、独断で選定したものといえます。
北海道に9座、四国2座、中国地方1座、九州6座、残りは本州。名古屋地方では木曽駒ケ岳、空木岳、御嶽山、恵那山、伊吹山、大台ケ原山、大峰山があります。
平成に入り、中高年者に登山ブームが起こり、百名山登山が話題をよびました。
 執筆した深田久弥氏は石川県生まれで、東京帝国大学哲学科に入学(後中退)。1933年に小林秀雄らと「文学界」を創刊。ヒマラヤ研究や山岳紀行で活躍。 

なぜ百名山なの?

20代の頃は、土曜日の仕事が終わってから鈴鹿の山に登っていました。また、「山はアルプスに限る」とばかりに、槍や穂高の岩尾根に登って歓声を上げていました。その山登りも、30歳を過ぎてから止めてしまいました。 その後、山のことはすっかり忘れていましたが、40代半ばになってから、会社の先輩の影響を受けて再び登るようになりました。
199610月に瑞牆山に登った時のこと、ミズナラの紅葉があでやかであまりも美しく、中部地方の山ばかり登っていてはこの美しさは体験できないと思い、全国の山々に登ることを決意。ただ登るだけでは面白くないので、何か変わった登り方をしようと、「夫婦で登る百名山」をすることに。夫婦で登る百名山は2人一緒に連れ立って登り、山頂三角点にタッチしてはじめてその山に登ったことにしています。一人で登った山はカウントせず、再度2人で登りなおしています。
百名山をめざすには自分の体力だけでなく連れの体力も必要です。体力だけあってもダメで、100座を登りきろうという意志も大切です。幸いにこの2つともクリアできたので始めることができました。
百名山を目指す理由や価値観は人によって違います。ただ100名山のテッペンへ立てばいいというものでもありません。百名山に登るのは100       の山のピークハントをするだけのことじゃないかと批判的なことを口にされる方もみえますが、百名山を目指さなければ北海道や九州の山に登ることもないし、行くこともないでしょう。九州の山と北海道・東北の山は植生も違うし、山の個性も違います。また、各地の風景や温泉、その地の人に接することもないでしょう。百名山を目指す意義はここにあると思います。 

100名山達成にあたって

 夫婦で登る百名山を始めてから15年間がかりで達成することができました。
夫婦二人だけで登った山は34座と少なく、残りは仲間たちと登っています。二人だけで黙々と登るよりも、仲間たちと花の名前を言い当てながら、世間話をしながら登るのが楽しいでした。夜は宿で気心知れた仲間との会話がはずみました。
私たちは車で登山口まで行くいわゆるマイカー登山が基本でした。それは電車・バスなどの交通費用を削減するためと、電車やバスの運行時間に制限されることなく柔軟に登山口にアプローチし山行計画を円滑に進めるためです。マイカー登山のマイナス点は車を取りに戻らねばならず、縦走には向かないことです。また、カーナビを利用することで迷うことなく登山口までたどり着けました。 
北海道、東北、四国、九州の山はワゴン車1台に5名が同乗して、北海道は24日間かけて、東北は3回に分けてそれぞれ10日間前後、四国と大山は1週間、九州は10日間で移動しました。
山へ登ったら必ず温泉に入ったので、全国の秘湯や郷土料理も数多く体験することができました。
 100の山には100の歓びがあるといいますが、やはりどれも個性を持った山ばかりでした。「何でこんな山が百名山なのだ」と思った山も幾つかありましたが、それでも個性を持った山には違いありません。人によってはその山が「たまらなく好きだ」という方もいられると思います。色々と個性を持った100の頂きへ登るということは、それだけで充分価値があると思います。ブナ林が美しい山もあれば、紅葉が美しい山もあり、山の魅力は四季によっても大きく変わるので、その山の本当の良さを知るには四季ごとに登ってみないと分かりません。たった一度登っただけでその山を評価するのは余りにも酷です。
幌尻岳は山小屋が満員で確保が難しかったので、普通2泊して登るところを、朝2時に出発し、額平川の徒渉を片道18回繰り返して、14時間かけて往復しました。苦労して登った山は記憶に残るものです。
利尻岳は海抜ゼロメートルから海抜1700mを一気に往復。
浅間山は今でも入山禁止になっており、対岸の黒斑山に登って代わりとしました。雌阿寒岳は入山禁止で深田久弥でも登れず、雄阿寒岳に登っており、私たちもそうしました。
登ったというよりも、「行ってきた」という山も数座ありました。八幡平や草津白根山、霧ケ峰は頂上駐車場まで車で行って山頂を往復。美ヶ原は駐車場がすでに山頂の一角にあると言ってもいいようなところですが、ここは山麓から登りました。
深田氏は「日本百名山」の「後記」で「機会があれば、若干の山の差し替えをするつもりである」といっています。御在所岳が「遊園地化していた」ため百名山に選ばれなかったように、あまりに開発が進んで登る山としての魅力がなくなった山として、八幡平、蔵王山、美ヶ原、霧ケ峰、草津白根山、赤城山、筑波山、丹沢山、伊吹山があげられます。 

忘れられない思い出

 北海道の山は熊の恐怖でいっぱい。羅臼岳登り口で熊が出たとの証言。熊の好きな蟻がいっぱいの場所があり、そこを通過する時は注意するようの看板。下山するまでの長かったこと。
トムラウシ登山での出来事。
トムラウシでは二人きりで山中会う人もなく、熊に注意の看板が恐怖をあおり、鈴を鳴らしぱなしでした。
北海道の山は蚊が多いから、対策をしておいた方が良いと書いてあったので、ナイロン製のメッシュを用意しました。先が見えないほどの蚊の大群です。注意していないと、手袋の上にも4,5匹の蚊がとまっています。本州の蚊のように血を吸われると痒くなるようなことはありませんが、吸われると痛い。笹やぶの湿った所は特に蚊が多く、3時間ほど蚊に悩みながら歩きました。

道標が少なく、いけど行けど行きかう人もみえず心配の連続でした。分岐からヒサゴ沼へ向かう途中大きな雪渓あり、ガスが濃く先が全く見えません。消えそうな人の踏み後を見失いように進みますが、途中で足跡が消えてしまい、あたりは何も見えず不安は募ります。方向的に感覚的に下の方へ下りていけば、目的のヒサゴ避難小屋はありそうで、途中で踏み跡が見つかった時のうれしかったことこの上ありませんでした。
翌朝、沼の淵からいきなり500m雪渓を登ります。固く締まった雪は滑りやすく、3m程の雪の断層があり恐怖と緊張がはしります。30分くらいで雪渓を抜け出、急登を登りつめると、そこは岩と湿地とお花の楽園が果てしなく広がる雲上の楽園。春と夏が同居し、これまで体験したことのない規模と美しさでした。
鹿島槍から五竜岳への縦走で大キレットを通過するとき、切り立った崖を10m程通過する場所があります。幅10cm位の砂道は谷側へ傾斜して滑りやすく非常に危険です。う回路をあちこち探せど見つからず、そこを通過するしかありません。キャンプ用の大きなリュックを背負っているので不安定です。 滑れば100m下へ真っ逆さま。手をかける岩でもあればそんなに恐れることもない個所ですが、岩は握れるようなものがありません。滑らないよう、指に渾身の力を込めて一歩一歩進みました。その場所に鎖が設置されたか分かりませんが、今でも思い出したくない場所です。 

これからの山登り

日本百名山の山行を終え、何か大きなものを山からいただいたような気がします。これからの我人生の大きな支えを得た思いです。
私自身、百名山は一つの通過点にすぎず、これからは「人生の山」のピークに向け花々を眺めながら、これまで登った山も季節を変えて、ゆっくり山行をしていきたいという心境です。 無理をせず、下山した後の風呂とビールをもとめて、可能な限り四季を通じて、美しい日本の山旅を楽しみたいと思っています。


             

2010.8.28