『 白薔薇の剣 』
−最後の王女の騎士録−
第24章 『鎮魂歌』 −1−
「辛気臭ぇ」
カーキッドがポツリと呟いた。
その隣でオヴェリアは、一瞬考えを巡らせた後に答えた。
「綺麗な声です」
歌のようだ、デュランの祈りは。
オヴェリアは目を閉じてその声に聞き入り、カーキッドは興味なさそうに背を向け煙草をくわえた。
墓場は沈黙を守っている。
その時不意に轟音が響き、オヴェリアは空を見上げた。
雲だ。幾多の雲が轟音を上げながら、天を統べるように駆けていた。
その様はまるで行軍のようだとオヴェリアは思った。
そして風は北から南へと吹いている。
クシャミをしたマルコの肩を抱いてやりながらオヴェリアは、もう一度目を閉じた。
雲はやがてハーランドへ届くのか。ならば父もいずれ同じ空を眺めるのだろうか。
脳裏に父の顔が過ぎったが、オヴェリアが声を掛けるよりも早く消えて行った。
だから彼女は闇に向かってその名を呼んだ。
父上、と。
24
「ん、染みる」
熱燗を一口、デュランは眉間にしわを寄せ呻くように呟いた。
その斜め向かいでカーキッドは大口で肉に食らいつく。口の端を垂れた肉汁をピッと払い、指を嘗めた。
「不味いな」
せっかくの飯も台無しだ。そう言って皮肉げに笑うカーキッドを見、オヴェリアもそっと肉を頬張った。
焼けすぎて焦げている。苦味しか感じられない。
隣でマルコが震えている。寒いのかと思い自分のマントを背に掛けてやりながら、オヴェリアは言った。
「一体何が起こっているのでしょうか……」
もう偶然とは言い切れない気がした。今日ここで3件目なのだ。
――誰もいない村に出くわすのは。
ドルターナの城を出て今日で7日。デュランとマルコを加えた一行は北を目指し歩いた。
人目を避けるようにして歩み来た彼らであったが、異変が起こり始めたのは3日前。川を渡った頃からだった。
ハーランドの北部を流れる2つの川のうちの1つ、アリア川。そこを渡ってすぐにたどり着いた人家、軒の数と規模からしても小さな集落だ。だがそこに誰もいなかった。
へき地の小さな村人が食べて行けず土地を捨てる事はよくある。年月による自然の流れによる人民の減少かもしれぬ。土地の様子から、人がいなくなって1年は経っているように見えた。
その場は深く考えずその場を去ったが4人であったが、次にたどり着いた場所でも同じ事が起こった。
今度は最初の村よりも幾分大きな所だった。建てられた家からも、それなりに安定した暮らしが伺えた。開墾された土地も多く、商店らしき建物も多かった。
それでも誰もいなかった。
不思議に思って調べてみると、すべての痕跡が半年前でパタリと止まっていた。町中に冬の装いを残していたのである。
……そして今日この村で3件目。
「気色悪ぃ話だ」
だが言葉とは対照的に、カーキッドはどこか面白そうに酒を飲んだ。この酒は人家から彼が勝手に持ってきた物である。
「真に奇怪」
デュランは眉間にしわを寄せたまま、小さく息を吐いた。
「少なくともこの村にも、1ヶ月前まで暮らしがあった様子がある」
日が暮れる前に、4人はこの村の様子も調べた。そしてそこに前の町と共通の点はあった。
すなわち、人の気配は唐突に絶たれている。
「干されたままの洗濯物、作りかけの料理、片付けられずに放置された皿、開け放しの窓……人がいた気配はある。そしてそれが、何の前触れもなく絶たれている」
「盗賊に襲われた……?」
「それにしては、争った形跡もありません。人為的に建物が壊れた様子もない」
恐る恐る問うたオヴェリアに、デュランは迷いながらもゆっくりと首を横に振った。
「流行病かとも思いましたが、どの家にもそんな痕跡がない。ましてこれほどの数の人々を死に至らしめるほどの死病が回ったとなれば、それなりに他の所に噂は飛び交うもの。だがそんな話はこれまで聞いた事がない。教会はそういった情報には事敏感ですからな。それに死病の蔓延により人が失せたならば、最後に残った者は村を焼いて出るでしょう。小さな集落であればなお更に。だが無論そんな形跡はなかった」
まして、とデュランは明後日を見た。
「人が消えた時期に、大きな差はない。日は前後しても1日2日、そして町全体の様子からして同じような時間帯に忽然と人はいなくなっている」
建物だけを残して。
「これほど唐突に大量の人が、身支度も何もないままに土地を離れるなど明らかにおかしい。誰しも土地には思い入れがある。ここに生きた、それだけでその者の魂が宿る。そして眠りし家族の亡骸もある。……そうした物すべてを切捨て、突発的に離れる事など、並大抵の事ではできようもありません」
普通に考えてもこれは奇異。
「1人2人ならわかる。だがこれだけの規模となると。もはや、個人の意思を超えている」
……この3件、デュランは墓地を見つけては祈り続けた。
捨て去られたのか? 置いていかれたのか?
生きる者いなければ、そこに眠る者たちの思いは誰が引き継ぐ? 誰が唱える?
「……」
オヴェリアは椀に口付けようやく気づいた。もうそこは空になっていた。味も食感もすべてが無意識だった。
「どうされます? 姫様?」
デュランが探るようにオヴェリアを見た。カーキッドも無言で、だが太い眉が奇妙に歪んだ。
「……」
オヴェリアは返事を躊躇った。
「明日……もう一度、念のために調べてみましょう」
無論、カーキッドはいい顔をしない。
そしてオヴェリア自身も今回は、何となくその言葉を言いあぐねた。
本能が何かを感じ取っていた。
……そしてオヴェリアの隣ではマルコが亀のように首を引っ込め、凍えるように火にあたっていた。
その夜は無人の人家で過ごす事にした。
いくら人がおらぬと言っても、勝手に上がり込むのは無法者と同じだとオヴェリアが言った事により、結局宿と思われる場所を探しそこに入った。明日の朝には多少なりとも宿代も置いていくつもりだった。
放置された家の中は埃がひどかった。虫も湧いていた。だが外で寝起きするのに比べればそれでも雲泥。
このような場所に当然にように寝起きできるようになってしまった自分を思うと、オヴェリアは少し笑ってしまう。
「フェリーナが見たら卒倒してしまうわ」
「フェリーナ?」
思わず口にした言葉を、マルコが拾い上げた。
「私の侍女……いいえ、姉妹のようなものだわ」
広い部屋に今はオヴェリアとマルコの2人。ランプの小さな光が部屋を照らし出している。
デュランは念のためにともう一度建物の周りを確認に行った。カーキッドは煙草を吸いに行くと言い、デュランに同行した。
マルコは大きなクルクルとした目でオヴェリアを見た。目が合うとすぐにそらしてしまうが、それでも出会った頃とは全く違う。最初は視線すら合わせようとしなかったのだから。
旅に出てまだ数日。少年の足には堪えるだろうに、だが彼はしっかりと大人の足についてきている。
「遅れたら置いていくぞ」
カーキッドは常にその言葉を連呼しているが、その足取りには気遣っているのが目に見えてわかるほどだ。
彼のその様子を見て初めてオヴェリアは気づいた。きっと自分も、彼はこうして歩調を合わせてくれていたのだろうと。
「レトゥ様にお手紙、届いたかしらね」
町に行き手紙を託したのは、4人で旅立ってすぐの事だった。その時にオヴェリアも父に宛てて書をしたためた。
町の兵団に託した。早馬ならばもう届いたであろう。
そしてそれが、オヴェリア達が街道を歩いた最後の瞬間だった。そこからはひたすら裏道を通り、目立たぬように動いてきた。
ひとえに、教会の動きを警戒したがゆえにである。
主街道沿いの町には教会施設も多い。万が一手配書が回っていた場合に、いざこざになる事を避けるためである。
(問題は、私達よりも私達のせいで巻き込まれる一般の人たち)
随分街道をそれたおかげで、立ち寄る村々に教会の威光はなかった。
祈る神はサンクトゥマリア。だがかと言って弔いをあげる神父の姿はない。
……今のこの村もそうだろう。人々は土に還る、神父ではなく、残った者達の祈りのみによってそこに安寧を得る。
だがそれも絶たれた今、彼らは誰の祈りによって眠ればいいのだろうか。
「先生は、元気かな……」
膝小僧を抱え、マルコは震える声で言った。「体、大丈夫かな……」
「大丈夫よ」
オヴェリアは笑って見せた。
「あの方は強いもの。きっともう、1人で歩けるようになっているわ」
他の子供達や……レトゥを支える人はいる。そう思ったが、オヴェリアはそれを言わなかった。
マルコはレトゥを支えていた。あの頃少年は、それだけが世界のすべてだった。オヴェリアにはそれがわかっていたから。
どう思いを馳せても師の現状はわからない。そして大切な人を残して遠く離れる痛みは、オヴェリアには痛いほどわかっているから。
「大丈夫よ」
それだけを言った。それだけしか言えなかった。そして、それでよかった。
「うん……」
マルコは浅く何回か頷いた。
戻りたい? などとは絶対に聞かない。
(この子は私と同じ)
そんな問いに、答えられるはずがないから。それがわかっているから。
それにしても、とオヴェリアはマルコの肩に視線を落とした。
「まだ寒い?」
肩が震えている。
そして小さな光の中でもわかる、マルコは真っ白の顔をしていた。
心配げに覗き込んだオヴェリアと目が合うなり、少年は戸惑った様子で顔を背けたが、
「……気分が悪いです」
今夜の食事のせいかとオヴェリアは一瞬眉間を寄せたが、彼は食べる前から震えていた。
確かにこの数日、まともな食事は取れていない。食料の蓄えも底を尽きかけている。オヴェリアは知らぬが、立ち寄った村や町で使えそうな物をカーキッドはこっそりと拝借している。
どちらにせよ、幼い体に無理をさせているのは間違いない。そしてそれはこの先もっと過酷になっていくだろう。
やはり郷里へ戻すべきだろうか? オヴェリアの胸に一瞬そんな迷いが宿り瞳に出た。それを察したマルコが慌て、「体調じゃないんです」と言った。
「体調じゃなくて……何かもっと別の感じで」
「?」
「………」
マルコはどう言ったらいいかわからぬと言った様子で考え、その果てに「とにかく、僕は大丈夫ですから」
置いていかないで。
言外に秘められたその言葉に気づき、オヴェリアはそっと微笑んだ。
「今日はゆっくり休みましょう」
「……はい」
「寒いならほら、今日は一緒に眠りましょう」
「……え?」
「一緒にくっついて寝ればきっと温かいわ。ね?」
そう言って「おいで」と言わんばかりに手を差し出したオヴェリアに、白かったマルコの顔が紅色に変わった。
「いえ、そ、それは」
「なあに?」
「そんな、恐れ多いです…………」
子供ながらに少年はしどろもどろにそう答えたが。
「姫様、私、先ほどから悪寒がしてなりません」
そう言って部屋に入ってきた者がいた。
「まあ、デュラン様も?」
「はい。寒くて寒くて、1人ではとても今日は眠れる様子になく」
真剣な顔でそう訴えた神父は。直後、猛烈な蹴りを受ける事となった。
「そんなに寒いなら、その背中に火をつけてやろうか?」
戸口に仁王のような形相で立つ男を振り仰ぎ、デュランは顔を引きつらせた。
「……悪寒は止んだゆえ、結構」
「大丈夫ですか? デュラン様?」
「……悪寒は止みましたが、蹴飛ばされた尻が少々……」
間もなく、ランプの火は消えた。
そうなればもう辺りは漆黒の闇である。内にも外にも、光る物は何もない。
月の姿はない。そうなれば天界を統べるのは圧倒的な数の星のみ。
オヴェリアはマルコに身を寄せるようにして眠り、デュランは窓際の壁に肩膝を抱えるようにして眠りについた。戸口で胡坐を掻いて目を閉じているカーキッドのすぐ脇には、黒塗りの剣が控えている。
静寂の中に、誰かの寝息が聞こえ始めた頃。
「――」
スッと、デュランは目を開けた。
すぐに窓を覗き込む。
「どうした」
デュランの様子にすぐにカーキッドも気づき、剣を手に取った。
「何かが陣に触れた。……1つ2つじゃない、それも、良くない気配だ」
先ほど外を見回った際、デュランは建物を中心としたある一定の距離に境界線の陣を張った。何かがその境界に踏み入れば、デュランは感じる事ができる。
旅に加わって以来彼はそうして夜毎の警戒を怠らなかった。
「刺客か?」
「……面白そうに言うな」
「へぇへぇ」
しかし喜色満面の男は窓辺ににやけた顔をさらした。
「何か光ってるぞ」
光などない、闇であるはずの外。だが地表にポツポツと光の点が見える。それはまるで一瞬、夜の星が地表に落ちたかのように見えたが。
すぐに、デュランは気づいた。
「来るぞ」
その光の粒が一斉に、こちらに向かって駆けるように押し寄せてきた。
「オヴェリア起きろッ!!」
カーキッドは剣を抜き、デュランは新調したばかりの弓を引っ掴む。
「何……?」
「マルコッ、オヴェリア様を奥へッ」
窓を開け放ちながら、デュランが叫ぶ。矢に護符をつけ、弓を引き、
「狼か!?」
放つ。
矢は赤い光と共に宙を飛び、先陣を切っていた一頭を貫いた。
だが群が勝る。闇に光る無数の目が牙を向き、一斉に4人のいる場所へと向かい来る。
内一頭が、窓に向かって跳んだ。ここは2階である。
しかしその跳躍はまっすぐ窓を捉えた。
ガラスを砕き部屋に押し入ってきたそれを、だがすぐさまカーキッドが一刀両断する。
「何だこりゃ!?」
そして彼は叫んだ。
オヴェリアはランプに火を点け直し獣の正体を見、すぐにカーキッドの言葉の意味を理解した。
カーキッドに斬られた獣、狼と思しきそれは、だが胴の上に頭を2つ付けていた。
生態としてありえない姿。
マルコは喉の奥で悲鳴を上げたが、すぐにオヴェリアがその手を取って部屋の奥へと避難させる。
「カーキッドッ!」
斬られた獣が再び動き出した。牙を剥き、瀕死とは思えぬ動きでカーキッドに向かって襲い掛かる。
胴体を噛まれる寸前でそこに黒い剣を押し込む。獣は歯でそれを止めようとしたが、カーキッドの剣の方が勝った。1つ目の頭は一気にそこで吹き飛ばされた。
だがもう片方の頭が残っている。そちらが今度は狂ったように、首を振り回してカーキッドの足を食らいつこうとしたが。
上からオヴェリアが剣を叩き入れる。
「何なのこれは!?」
「ミリタリア・タセ・エリトモラディーヌッッ!!!」
さらに窓から押し寄せる軍勢向けて、デュランが術を繰り出した。
だがその炎を超えて、双頭の獣は押し寄せ。
全身に炎をまとわりつかせながら、オヴェリアたち目掛けて走った。
「建物の外へッ!!」
ここにいてはいけないと判断したデュランが叫ぶ。カーキッドが問答無用で、狼たちの首を叩き落としていく。
「面倒くせぇ!!」
動きの早さに、カーキッドも翻弄される。
「オヴェリア、マルコと先に行けッ」
オヴェリアは一瞬躊躇ったが、マルコの腕を取り部屋の外へと飛び出した。ここは退路を確保しなければならない。
「ひ、姫様ッ」
返事の代わりに、強くマルコの手を握る。
――そして。1階に下りたオヴェリアはそこで愕然とした。すでに建物の中に、獣達は押し入っていたのだ。
それも10や20ではない。光る無数の目。
「これは……ッ」
オヴェリアはゴクリと唾を飲み込んだ。
その全身にも震えの衝動は湧き起こる。だがそれは決して、寒さゆえではない。