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女3人お遍路日記


第7回 43番明石寺から45番岩屋寺 その1


阪神大震災

 今回は43番明石寺から1キロ歩いたJR卯之町駅から打ち始め、45番岩屋寺を打ち44番太宝寺を打ち2キロ歩いて伊予鉄バス久万営業所で打ち止めの100キロの遍路の旅でした。今回の祈願は、1月17日、午前5時46分未曾有の大惨事!阪神大震災で犠牲になった姪の供養と先祖供養と今までの感謝を込めて歩かせていただきました。

 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、淡路島を震源とするマグニチュード7・2の直下型大型地震が阪神地方を襲いました。死者5、348人負傷者33、222人、到・損壊家屋は109、464棟(2月15日現在)。死者は関東大震災(1923年)に次ぐ未曾有の大惨事でした。

 お遍路をして出来た私の夢の店「曼陀羅」で出会った主人と結婚して四ヶ月過ぎていました。明け方です。ゆらゆらゆら ガタガタガタと揺れます。えっ!!なに なんなの と二人で寝惚けて家の中を歩きます。棚の上のランプや飾ってあった大皿が落ちて割れています。えもん掛けが倒れています。私はこれだけでも今までに未経験だったので怖がります。主人は「大丈夫や、大丈夫やからな」と言いながら、まだ朝は早いしもう一眠りさせようとします。

 二人は地震だと言う事は分かるのですが、寝惚けていますし・・只、店が心配なので出勤前に一緒に見に行こうと話しました。朝を待ち、取り敢えず家から車で数分の店に行こうと車で出ます。200メートルも走ると町の様子や道路が変です。不安がつのります。
 道路が盛り上がり亀裂が走り、傾いている家もあります。
「嘘やろ うそやろ 何これ なんなの・・・」
押し寄せてくる不安!店に着きました。祈る気持ちで開けた店内は・・冷蔵庫が倒れ中のビールや酒類が飛び出して割れています。店内もいろんな物が倒れています。主人が
「今日の夜、一緒に片付けてあげるから・・まずは家に帰ってゆっくりしなさい」と言い私もその言葉に頷いて家に帰りました。主人はいつものように会社に向かいました。(それほど家の被害は軽かったのです。店の方も後から見てみると不思議なくらいに被害は軽かったのです。)

 しかし、この時すでに大惨事はおきていたのです。阪神間のあちらこちらで。

 私は家の中を片付ける気力も無くボーとしている所へ主人が帰ってきました。
「会社へ行く途中ラジオを聞くと、どうも実家の夙川町大井手町の辺がひどいらしい。一緒に見に行こう」とトレーナーに着替えます。車で5分も走ると実家があるのですが・・もう、既に渋滞が始まっていました。私の目に入った街の様子は信じられない光景でした。ブロックの塀はバーンと倒れ、木造の家は全部が傾き倒れていました。大阪ガスのショールームのガラスは粉々に砕け、二階建ての建物は電線にもたれかかりなんとか建っていました。そして・・・やっと着いた主人の実家と隣の義妹の家はすでに一階部分は無く二階の屋根だけが見える全壊でした。

 屋根に義妹と夫が立っています。二人の甥は道路にうな垂れて座っています。姪は・・姪は・・下敷きになっていました。三時間後に助け出されたときには、すでに亡くなっていました。14才、家族五人分の朝食を毎日作り、裁縫も得意でテニスに熱中し、旅行が大好きで将来は医学、薬学、栄養学の方面に進みたいと望む、家族の光でした。  人生も恋も全てがこれからの、活発で明るいそして、可愛い女の子でした。私は三回しか会っていませんが、不思議と気が合い私の娘の由里を名前が同じ百合と言う事もあって、百合の振り袖を着せてあげる事をどんなに楽しみにしていた事でしょう。

 この日から、主人と二人のマンションに12月30に生まれた孫の奈実も含めて十数人の生活が始まりました。が・・私を含めて多分、全員が百合ちゃんの火葬が終わるまでの、一週間の記憶は飛んでいます。阪神大震災は300万人以上の運命を変えました。

 私達家族数十人は、それぞれが自分の役割を自然に認識し前向きに行動しました。主人の母は17日は旅行に行っていて助かり神戸から倒壊した家屋の町、国道2号線を歩いて帰ってきて以来、常に静かに娘を孫を見守っていました。主人は無事だった大阪の会社へ毎日延々渋滞の中を通い、代表として、一家の柱として、また、妹一家の今後のために落ち着いた態度で見守り支えてくれました。

 妹一家は毎日お弁当を作り、倒壊した家に通い少しずつ出せるものから取り出して行きました。6年と4年の甥は塾に通い勉強です。娘の主人は医者として水も出ない、暖房も無い病院で被災者達の診療に従事しました。娘は生後2週間の奈実の育児に奮闘です。奈実は存在そのものが皆の笑顔を呼び寄せました。私は夙川から水を運び店を片付け掃除して、2月1日から仮オープンです。

 店を開ける事が私の使命だと思いました。お蔭様で開けたその日から今日まで何方かがお出かけ下さっています。有り難い事でございます。私達家族は、沢山の方たちの助けと励ましの言葉、温かい心に支えられ今日まで来ました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今、回りはどんどん更地になり、公園や市民グランドには仮設住宅が建ち町の様子は変わりました。でも・・・私達家族を含め全ての被災者達の心の底には、フツフツを燃える炎を持っている事は確かだと思います。
「ガンバロや 阪神!」「負けるもんか」「私達は古里、芦屋、夙川を絶対に離れない!」こういう張り紙を見るたびに唇をかみ締め、キッと前を向き
「よーし、やったろやないけー!」と思う私がいます。

 私は大好きだった百合ちゃんの為に、43番明石寺まで歩いて頂いたご朱印の掛軸を遺骨の後ろに掛けました。43の本尊様が百合ちゃんの後ろで温かく微笑み守って下さっているように感じました。その時決心しました。お遍路に出よう。私が百合ちゃんのためにしてあげられる一番私らしい事・・・お遍路の続きを歩く事だと。

 阪神大震災で犠牲になった方たちの冥福を祈り、命あり家があり仕事が出来る事への感謝を込めて歩かせていただこう。

再びお遍路へ

 3月18日23時10分神戸三宮発の阪神高速バスで出発です。このバスに乗ると約7時間後には前回の打ち止めの卯之町営業所に着きます。前回の宇和島でこのバスの事を知りました。少しずつ賢くなってきます。アタリマエヤテ ハハ

 神戸の町は被害がひどくて死んでいました。三宮の駅前から乗るのですが「そごう」は半壊で取り壊しが始まっていました。なかなかの快適なバスで私は少し眠れました。19日の朝5時50分に卯之町営業所に着きました。缶コーヒーとパンを食べて出発です。

 朝の冷気の中を少し歩くと前回の打ち止めのJR卯之町駅に着きました。すると、止まっていた車の中から男の人が下りてこられます。
「あれー高市さんじゃないのーなんでー・・・」(此の方は愛媛新聞社の方で、私の手記を連載して下さっている人です。今回の地震でお見舞いのお電話を下さいましたときに、このお遍路の日程を知らせていたのです。)驚く私にニコニコしながら近付いて来られました。
「こんにちは、この度のお遍路は車で同行して少し取材させて下さい」
勿論、私は全然かまいません。私の後ろになり前になり取材されて3月27日の愛媛新聞に載せていただきました。その時の新聞は私にとっても貴重なもので大切に持っておこうと思いますし、主人も母も妹一家も喜んでくれましたし、百合ちゃんのささやかな供養にもなったと思っています。高市さん本当に有り難うございました。

 急いで白装束の用意を整え、打ち始めのお祈りを済ませて駅の前で写真を撮っていただきました。6時20分出発です。前回、宇和島役場お勤めの滝上節子さんと一緒に歩いた、石畳のきれいな商店街を懐かしく思い出しながら歩き始めました。

 しばらく歩くとザーと雨が降り出しました。(エーなんでーまだ歩き始めたばかりなのにー)少しの間は我慢しましたがこれ以上濡れると着替えが無いので困ります。リュックを下ろしてカッパを着ます。でもこの雨は長くは降りませんでした。高市さんのお顔を見て驚いた私は、慌てて足にテーピングするのを忘れていました。これはえらいことだと地面に座ってテープを巻きました。歩き遍路に不可欠のテープです。

 今回のお遍路では、あちこちの畑に大根が植わっています。それも形が不揃いで大きくて、だいこん足とはよく言ったものだと感心しながら歩きました。まぁーまぁー二股大根も見つけて私は一人でクスクス笑ってしまいました。写真も一枚撮りました。どんどん歩きます。鳥坂トンネルを抜けました。
「ゲホゲホ」あぁー苦しいーフゥー9時10分でした。とことことこ・・・10時です。木作りの喫茶店「ウッディライフ」に入ります。ここのカレーとコーヒーはとてもお美味しくて、ナウイ内装が若者にも人気があるようでお店も繁盛していました。

 私はここで帰りの伊予鉄バスを予約しょうとしましたが、旅行中の電話予約は断られました。遍路をしている事を説明しましたが、やはり断られました。まぁーそれも仕方が無いと諦めます。ここから先ずーっと内子で切符を買うまでは帰りの便が心配でした。

 とことこ臥竜苑の辺りまで来ました。古い家並みが続き、石で出来た珍しい形の灯篭や籠のつくばいが家の外に置いてあります。ほんの少しの町並みでしたが、なんだかホンワカしてしまい気持ち良く歩いていると、あらあら行き過ぎてしまいました。ハハハとことことこ12時10分です。肱川橋に来ました。

 お遍路さんどうぞ、どうぞと言わんばかりに休息所がありあます。
「よっこらしょ」とリュックを下ろして案内板を読みます。
「肱を曲げたように曲流ししているのでこの名がついたといわれ、又比志城(大洲城)築城の人柱となった「おひじ」と言う乙女の名をとったと言う伝説も残っている。」と書いてありました。私はそれを読んだ後、もう一度眺めると確かに肱を曲げたように曲がっています。せっかくのご縁ですので写真に撮りました。

 とことことこ・・歩きます。原っぱがあったので思わず足が向きます。とことことこ・・よっこらしょ・・と座り辺りを見渡します。空は青く澄み渡り遠くの山ものんびりと構えています。私は目を細め大きく深呼吸します。幸せだと思います。
「百合ちゃん、私と一緒に四国を歩こうね。私と一緒に四国を目に焼き付けようね。ここから先ずーっと88番大窪寺まで・・高野山まで一緒だよ。」と話しかけます。リュックの中に百合ちゃんと昨年死んだ犬のアムロの写真が入っているのです。

 歩き始めます。とことことこ・・谷本蒲鉾店で明日のお昼のちくわを買いました。明日の行程は食堂が無いと宮崎さんの本に書いてあったのです。ここの奥さんはお遍路姿の私に話しかけてくれます。お遍路を二回まわった事や番外まで全部回られた事や色々ととても楽しそうに話される方でした。とことことこ・・歩いているとバス営業所が有ります。私は大阪に帰る切符を買いたいと言うと明日歩く内子で買えると教えてくれました。やっと一安心しました。  次回からは帰る便も買ってから出掛けてこなくてはと真剣に思いました。とことこ・・道端の販売機でヤクルトを飲んで休息です。ふぅー・・1時15分。とことこ・・出ました。有名な番外霊場十夜ケ橋です。大師がここの橋の下で寒さに一夜を十夜のように感じられた故事により名付けられ、以来お遍路は橋を渡るときは大師の心を思って杖をつかなくなりました。私もこれに習って遍路道中は橋の上では杖をつきません。

     ゆきなやむ 浮世の人を渡さずば 一夜も十夜の橋と思ほゆ

 ここでは時間もゆっくりありましたので、百合ちゃんのお祈りも心ゆくまでさせていただきました。写真も沢山撮りました。大師堂の龍の彫り物が素晴らしかったのでパチリ!お参りの80才ぐらいのおばあさんと一緒にはいパチリ!お気に入りの一枚です。

 とことことこ・・2時30分ふるさと旅館に着きました。前回の遍路で初日に30キロ無理して歩いて二日目が全然歩けなかったので、今回は距離を少なくして楽に計画しました。おかげで足がそろそろ痛くなった所で着きました。時間をもったいないと思うところもありましたが、いろんな事を考え合わせるとこれでいいのだと思いました。が・・

 お風呂に入って夕食を5時に食べて時間があり過ぎて、物足りなくて暇を持て余しました。あんまり暇なので鏡を見るとゲー!昨晩、店に出るときに化粧をしたまま夜行バスに乗り、そのまま朝から歩いた私の顔は日焼け止めクリームを塗る間も無くて顔はまっかっかのしみだらけ・・あーぁ嫌だなぁー。もぅー寝ぇーよおっと・・すやすやすや・・

 1時ごろ目がさめます。夢まで見ます。次はなかなか眠れません。寝なきゃ・・寝なきゃ・・ちょっぴり寂しいなぁー。

その2

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