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女3人お遍路日記

第10回 64番前神寺から70番本山寺


「菩提の道場」そして・・・「涅槃の道場」の始まり

 今回は64番前神寺から11キロ歩いたJR中萩駅を打ち始めとし、70番本山寺を打ち終えてJR本山駅で打ち止めの77キロの遍路旅でした。今回の祈願も先祖供養と阪神大震災の犠牲になった姪の中北百合の平安供養、そして全壊の為今なお仮設住まいの中北の自宅と仕事場を兼ねた中北幸環境建築事務所の完成と仕事成就祈願、中北次男の麦の灘中学受験合格(ヨクバリ!かなッ)そして・・・・私の娘と孫の本当にささやかな幸せを願って歩かせて頂きました。

 平成6年3月6日娘はその日22才の誕生日でした。一回りも年上の方に望まれ
「ママ私は今日お嫁にゆきます。幸せな明るい家庭を作ります。私の事は心配しないでママは今までの様にいつまでも明るく元気で奇麗で私の自慢のママでいて下さい。そしてお仕事に趣味に頑張って下さい。」と胸を張り声高らかにスピーチをしてくれたのは本当に昨日の事の様です。そのスピーチは、仲良し姉妹の様に暮らしてきた私達親子を知る方達の感動の涙を呼び、私の親友や親戚は
「由里ちゃんにあんな風に言ってもらったら春美さん、もう思い残す事は無いやろ、良かったねぇー」と一緒に泣いてくれました。

 純白のウエディングドレスと胸一杯に大きな黄色いお花で飾られたドレスはとてもとてもとても似合って本当に可愛い花嫁でした。由里は私の宝であり自慢の娘です。私もその後、同じ3月に「曼陀羅」の名前に引かれる様にして入って来た一見のお客様と平成7年2月に結婚しました。親子共々お遍路をして出来た「曼陀羅」で優しい方との出会いが有った事をどれほど有り難いと感謝し喜び本当に幸せ一杯でした。

 平成8年5月・・・・例年、四国で催される大護摩焚きで諸々の祈願の護摩を、お焚き上げしてホッ!としていた頃でした。娘は突然に一才の孫を抱いて帰って来ました。おなかの大きい一年と地震を経験しながらの育児の一年とのたった二年と少しで。

 私が夜中にお布団の中で腹の底から湧き上がる悔しさをこらえきれずに鳴咽の声を上げたのは、その日から三ケ月の時が流れて娘が一生懸命に新居の為に買い揃えた家具をリサイクルに処分したり、持って行ったお雛様やお茶のお道具等を私の家に頂かり、なんとか子供の様な親子二人が1DKの部屋に落ち着いた後の事です。それまでは現実を見つめて文句を言わずに一番しなければならない事をしました。赤ちゃんを抱えた23才の娘は余りの事に人間不信に陥り、食欲も無くなり髪の毛も抜けたりしましたが私は、
「由里ちゃん、悪い事は早く分かって良かったのよ、きっと大護摩焚きで噴き出したのよ。奈実と言う宝も授かった事だし今からは自分の人生を真っ直ぐに歩んで行こうね、大丈夫よ私達が明るく生きていたら奈実も良い子に育つわよ」と話しました。

 因縁深しとはよく言いますが母の時から家庭運の無い私でした。子供だけは・・と祈願して歩き続けて来ましたが・・なかなか修行は続き、まだまだなんだなぁー・・(ようしこれからもますます娘の為に孫の為にも歩き続けるぞー)と決心するのでした。(まっ!これが私の一番良い所で、どんな時もめげない!前向き!明るいの三拍子です。ははは・・・・・)

 お遍路をしたのが8年11月、この手記を書き始めたのが9年2月です。中北麦の灘中受験は合格しました。そして、娘は孫を保育所に頂けて事務の仕事に就きました。慣れない仕事と小さい子を頂けて働く事に最初はパニックに陥っていましたが今では、頬もふっくらとしてきて本来の自分を取り戻してとっても明るく元気にしています。これで良かったよかったヨカッタノヨ!)

「再び四国へ」

 11月25日午前9時12分新大阪発の「ひかり」に乗り岡山へ・・・・10時24分発の「しおかぜ」に乗り新居浜へ・・・そして前回の打ち止めの駅・・・・懐かしい無人の中萩駅に着いたのが12時15分です。わぁーい、いいー天気!うんもうー山も畑も、きらきらキラキラにっこりりん、春美さんを迎えてとーっても嬉しそうぅに笑ってくれています。お久し振りですハハ。

 トイレで三つ編みにしてタオルを巻き傘を被り、座ってしっかりと脚半を締めます。この脚半を締める時に私の心も一人の女から無の遍路に変わる決心をつけるのです。土地の人に中萩駅をバックに前回と同じ場所で写真を撮って頂きます。12時40分さぁー出発!とことことこトコトコ・・・(しまったぁーーー!打ち始めのお祈りを忘れてしまったーーーー!)

 後ろを振り返ると、さっき写真を撮って頂いた人達が私を見送って下さっています。引き返すのも照れ臭いし(じゃま臭いし・・えぇーいしゃぁーない、心を決めて)駅の方に(見送って下さっている人達に向かって)合掌しお祈りの言葉を唱えます。すると彼らも姿勢を正して驚いて見ています。お祈りが終り一礼しますと彼らも一礼されます。さぁーこれでやっと安心して出発です。(お祈りを忘れる程じゃー私も、まだまだダメだなぁー)

 とことことこトコトコトコちょっと歩いた所で「コーヒー倶楽部」を見つけました。1時15分です。(春美、こんな所で休んだらダメよ、まだ全然歩いて無いじゃーないの うん、でもぅコーヒー飲みたいもん)私の足はもう既に玄関に向かい手は扉を押していました。

 中に入ると人は誰もいませんし声を掛けても返事も有りません。店内は都会のお栖落な喫茶店の様に、内装も調度品もとても凝っていました。しばらくすると女の人が玄関から入って来られて「あぁーすいませんねー」と言われるのでここの方なのだと分かり、やっとリュックを下ろしコーヒーとトーストを注文しました。彼女はお話好きの方で店内の調度品を褒めると色々な事を話始められました。

 調度品の中ではランプがご自慢らしく、確かにとても変わった素敵な形のランプが幾つかあり私も興味を持って眺め、欲しいなーと思いました。このお店は素敵で凝ってはいるけれども雑然としていてやる気の無い雰囲気が流れています。その訳は彼女の話を聞いていくと分かってきました。・・・

 「私は四国に住んでいてもお遍路をしたいとは思わなかったの、でも大きな事故に遇いました。店に帰ろうとして道路を境切ろうと止まっている時にバスがノンストップでぷつかって来ました。私の車は小さくてグチャグチャになってしまって、当然なら即死の事故だったんですが生きていたのです。事故に遇ってみて考えたのですが、明日があるとか無いとか思って生きていなかった、そんな事すら考えて暮らしていなかったそれを考える様になりました。生かされていると言う感謝の気持ちで、身体はあちこち今でも痛むのだけれども心はとても穏やかに暮らしています。事故が無ければ、お店も改装して色々と計画していたのですが・・もぅそれどころで無くなって、かたずけも出来なくてほったらかしですが・・・・事故を経験してみて初めて遍路に出てみたいと思い始めました・・・」

 私はこの喫茶店に入って彼女の話を聞くのが今回の遍路の始まりなのだな、と一人そう思いました。お話を聞き終えて披女と息子さんにさよならして歩き始めました。とことことこトコトコトコ2時30分民家の軒に吊るしてある干し柿を写真に撮っているとお婆さんが出て来られましたので私も写して頂きました。お婆さんは自転車の籠の中から自家製のキウイを下さろうとされるので
「お婆さん、とっても嬉しいのですが歩いていますのでとても重くておもくて、あの、一つでいいです・・・」
「そんなこと言わんと甘くて美味しいのでジュース代わりに食べなさい」(なんと五個も六個も袋に入れられます、こりゃ大変)
「お婆さんほんとにホントニ重たいので・・(泣きそう)・・」結局六個も袋に貰ってずっしりと歩き始めました。

 しかし道端で一個・・・畑の中に入って行って又一個ととても美味しくて二日がかりで食べました。とことことこ3時20分船木郵便局通過・・・黙黙黙・・・国道11号線を歩きます。とことことこ・・・4時大きな喫茶「鈴屋」を見つけ又入ります。休息ばっかりしてて情けないのですが足が痛いのです。お宿まではまだまだ遠い。

 この「鈴屋」さんにはぴっくりしました。店内は広々としていて床が大理石です。応接セットの様な皮張りの大きなソファそして陶器のフランス人形やステンドグラスのランプが何気なく飾られています。バックミュージックはクラシック!カップも高級で、ケーキもコーヒーもとても美味しいのです。広さは40坪は有ると思われます。まるで大阪のロイヤルホテルでお洒落して「お茶しましょ!」って感じなのです・・・。

 で、ここは新居浜市国道11号線この先も後も山道で辺鄙な所だと思うんですけどねー?お勘定の際に「あのーオーナーはどの方ですか?」「はい私です。」と愛想無く答えられるのでそれ必上は何も聞けなくて・・・中年の物静かな人だったけど脱サラして田舎で自分の趣味の店で静かに暮らしてはるのかしら?でも勿体ないなぁーなぁーんてやはり私は16年水商売を続けているので、お遍路中でも視点が商売人の目になってしまうのです。(又あのケーキ食べたいな)

 歩き続けます。いつもの事だけれど大阪から夜の仕事を終えて殆ど睡眠を取らずに歩く一日目はしんどい・・・とっことっこ足痛いなぁー・・・関の原バス停4時40分通過・・・とことこトコトコひょこひょこ・・・ズルッ!6時20分松屋旅館到着!

 11月26日8時起床、今日は民宿と距離の関係で歩行距離はたったの12キロ!ぼつぼつゆっくり歩けば良いので気分は楽です9時に出発、お宿から1キロ戻って番外霊場「延命寺」に9時20分到着。ここは前に64番前神寺で買った千枚通しの本坊だと書いてありましたので御参りして又、友人や義母や親戚に買いました。(中北の麦は千枚通しを受験の日に飲んで出掛けました)

 ここには「いざり松」と言う松があります。所以は弘仁年間(810−824)境内に大師が苗松を御手植えになり、再度当地を訪れた時、松の木の傍に居た足の不自由な人に千枚通しの霊符を授け加持されると足が立ったと言う霊験談から「いざり松」と呼ばれる様になったそうです。そこから千枚通しは願い事が叶えられるとして毎日飲む人がいるのかぁー。うん成る程。

 とことことこ10時10分畦道で昨日頂いたキウイを頬張っていると歩いて来た方が
「お遍路さんよう御参りで、今日は三角寺まで歩かれるのですか?」
「いいえボチボチ歩いてますので」(なんか後ろめたい気分今日は12キロしか歩かないなんて言えないよ)

 黙黙とことこトコトコ(昨日私は神戸元町で社交ダンスのラテン種目シルバー級の検定式験を受けました。派手な世界で平均50才の女性達が肌も露に出して濃いメイクで踊るのです。ダンスに関心の無い人達にとっては異様な雰囲気だと思いますが当人達はもぅすごぉっく真剣なのです。そして今日の私は白装束の遍路で田圃の中! 坪内稔典氏曰(「春美さんの意外性が魅力」ハハ)

 黙黙とことこ10時50分長津公民館通過・・・11時35分豊岡郵便局通過・・11時40分「遊悠TOO館」休息。ここで今日の宿泊先「ろんどん荘」に確認の電話を入れると、発たれる予定のお客様がもう一泊されるので部屋が無く近くのお宿を予約してあると言われました。のんぴりゆっくりの旅である(別に何処でもかまへんわ)・・・でも足がとても痛い、本当に痛い・・(こんな調子じゃ明日の20キロ、明後日の30キロが心配だわ・・・今日だけが唯一のノンビリ歩きなのだ・・・毎日夜明けの4時頃までお店で働いているから今日は大師さんが下さった骨休みの日かも知れない。今までの遍路旅はずーっとバイトに任せて店を休む事はしなかった。今回初めてバイトの都合が付かず店を4日も休んでの遍路だ。しかしこれは大師様がもうここまで頑張って歩いて来たのだからそろそろ無理せずにゆっくり歩きなさいと、言われていると考えて店を休んでやってきた。)

「蘇鉄と万両」

 とことことこトコトコふと、見上げると鉄筋二階建てのお家の庭にその屋根よりも遥かに背丈高く又電線をも超しておぉぉーきな蘇鉄を見つけました。
「すごぉぉぉぉぉーーーい!!大きいなぁー!」私の家のベランダにも鉢植えの蘇鉄がありますがもぅぉー全然違うの、びっくりして首を上に向けて見上げていると
「あれぇーツありゃなんだー?」蘇鉄の葉の下の部分(枯れた葉が切り落とされた下の部分になんと二メートル位もある万両が植わっているではありませんか?(ほんまぁー?!???)丁度、前の家の人が出て来られましたので
「あのーあれって途中から違う木が生えていますよねぇー」
「あーあそうですねぇ」
「すっごいですねぇ」その方は笑いながら行ってしまわれました。私は俳句の好きなパパの為に題材になるかもと思い写真を撮りました。望遠レンズにして帰ってからも嘘では無い証拠にと何故も写しました。(この写真はバッチリ写っていて万両は立派に蘇鉄の茎から伸びて成長していました。

 蘇鉄はどこまでも勢いよく空へ空へと伸び、その勇姿は南国の空に誇らしくさえ感じられました。)歩きながら考えました。大きな蘇鉄は他の植物を宿して養分を分け与えてなを、自ら動ぜず堂々と生き伸びていく力があるのだと。人間に置き換えたならば、大きく広く深い精神の持ち主は他人を包み込み見守り許す心があるのだと。そしてそんな人の所に人が集まってくるのだと。私もお客様の話をよく聞いてお客さまが本当に安心出来る・・そんなお店にそんな人間になりたい・・・とへんろ道に在る家の庭に植えられた万両を宿す蘇鉄の木を見て色々と考えさせられました。今回の遍路で一番心に残った事です。

 とことことこトコトコトコ1時10分寒川小学枚です。昔はどこの小学枚にも有った背に薪を背負い手に本を持ったお馴染みの二宮金次郎の銅像が有りました。1年生位の子に頼んでその前に腰掛けて写してもらいました。お遍路してて小学生とお喋りするのってとっても心温まるひとときです。そういえば土佐の下田川ぞいをずーっと一緒に歩いてくれた可愛い池内里早ちゃんから、今年は思いがけず年賀状が届いて本当に嬉しかった・・・・。

 とことことこトコトコ伊予三島市寒川町とは製紙工場が続く紙の町らしい・・・私は遍路をしながら菊間町の瓦の町・・今治市のタオルの町・・三島の製紙の町・・とまるで社会科の勉強ですネ。(この後川之江市に入りますと立て札が有りそこに詳しく紙の歴史が書かれてありました。)
「紙の町 川之江市」この地は古くから海陸交通の要衝として栄え江戸時代は天領になっていた所で現在の市制がしかれたのは昭和29年である。市の基幹産業は製紙工業で紙の町として発達。洋紙、和紙、紙加工の他金封や結納に使われる水引細工なども当地の特産品の一つである。又毎年7月末には紙をテーマとした「川之江紙まつり」が開催されている。しっかりメモして偉い!

 とことこトコトコひょこひょこヒョコろんどん荘に着き、つるや旅舘を紹介して頂き2時30分に到着!やれやれホッ!翌27日7時25分出発!タッタッたぁーサッサッさぁー9時45分伊予路「菩提の道場」の最後の札所65番三角寺に到着。石段を登り終えると単層の山門があります。この仁王門につるされてある鐘をお寺に入る前につく習わしになっているらしいので
「よーし、うぅーん」ごぉぉぉーん・・・ふふふこの鐘も写真に撮りお参りして帰りには石投の途中に立ってニッコリ記念写真。歩き始めます。

 黙黙黙もくもくもく11時長野商店前の三角寺ロバス停でバイクのお兄さんに写して頂き二人で地図を確認して又歩きます。とことことこトコトコ11時45分西方バス停通過・・・・12時30分・・道を間違えてみかん畑に入って行って(おかしいなぁー・・?)と思いながら少し進んでは引き返してウロウロウロ・・とうとう泣き出してしまいました、クスン。なんとか道を見つけて進みます。

 とことことこ・・すると番外札所「常福寺」(別名椿堂)に着きました。私はこの遍路で番外の札所まではとてもとてもお参りする気力は無いのですが、歩いている途中に在るのならば寄っても苦になりません。ここは寄ってみようという気になりました。

 椿堂の名の通り椿の木が沢山植えてあります。この名の所以は(815年大師がこの地に立ち寄られて持っていた椿の技を突き立て当時この地方に流行していた病を大地に封じ込めました。この椿の杖から芽が出て大樹になったいわれから椿堂の名で呼ばれる様になったそうです。)

 ここの納経所のおぱあさんは私が歩き遍路である事を知ると
「歩く人には納経代をお接待しています。」と言ってお金を受け取られませんでした。こんな事は今まで歩いて来て初めての事です。なかなか思っても出来ない事だと思います。本当に立派で有り難い事でございます。

 とことことこ国道192号線・・・2時平木バス停通過・・・足が痛くて民家の軒下で休む・・2時50分久俣内バス停通過、ひょこひょこ境目トンネル(傘を深く被り口をタオルで被い杖をしっかり持ってイザ!ゴー!)タッタッタァー・・・・・・・・800メートル位だったけどとてもとても嫌だった。

 ヒョコヒョコズルッ・・・・4時30分民宿岡田やっと到着・・フウウウツーー岡田さんの部屋には月刊「へんろ」が椅麓に綴じられて置いてありました。奥さんとひとしきりお話した後「あのー私はへんろに五年間掲載された竹内春美なんですヨ」と言って新聞をめくり「ほら、これって私でしょ」「まーほんとや、まぁーお父ちゃんが喜ぶわ、ずーっとお父ちゃんが読んでるんよー」と嬉しそうにして下さったので私も言って良かったと思い嬉しかったです。色々お話しましたが、今朝中之庄から歩いて来ましたと言うと「そりゃ遅い遅い遅いわぁー」と言われ恥ずかしかったですへへへ。

「まだ暗き雲辺寺」

 11月28日今回遍路の最後の日です。今日は30キロ。待っているのは民宿ではなく新幹線です。間に合わなければいけません。それと今日は千メートルの雲辺寺も登らなければなりません。緊張、慎重です。逆算すると4時には出発です。雲辺寺は四国88ヶ所中一番高く標高911メートルの所にあります。そしていよいよこのお寺から四国最後の道場讃岐の国「涅槃の道場」に入るのです。阿波の「発心の道場」土佐の「修行の道場」伊予の「菩提の道場」と歩き続けて来て、讃岐の「涅槃の道場」へと入りましたが私の心はなかなか慈愛と悟りの境地には成れません。(当たり前てっか、ハハハ)

 さて朝4時に発ちます。奥さんがお弁当を下駄箱の上に置いておくと言ってはった・・(有った有った)お弁当を入れて部屋を見渡して持っていたおかきを奥さんとご主人にと思いたち卓袱台の上に納め札と一緒に置きました。そーっと出発です。よしッ!心身共に引き締めてサッソーツ!と歩き始めます。

 しかし歩き始めて私は(しまったぁー)と思いました。晩秋の11月の朝4時の田舎道とは都会と違って真っ暗なのです。真っ暗まっくぅら・・・分かりますか?街灯も無い田圃道・・へんろ札も道しるべも読み取れ無いのです。(春美これは、はやまったんちゃうぅん、そりゃそうかも知れないけどこの時間に発たなきゃお前の遅い足では間に合わへんやん)なんやかんやと思いながら歩きます。雲辺寺の登り口がすぐあるはずなのですが真っ暗で分かりません。

 丁度そんな時一軒の家にあかあかと灯が点いていて人が出てきました。私はホッとして、
「あのーすみません、すみません」大きな声を掛けたつもりなのですが、その人は無視して家に入られました。私は悲しくなってしまいました。乞食と思われたのだろうか・・・泊めて欲しいと思われたのだろうか・・・私は山への入り口を聞きたかっただけなのに・・・でも、関わりたく無いと思われても仕方ないかぁ・・・・朝4時白装束じゃーねぇハハハ。

 とことことこトコトコトコやっと山への登り口を見つけました。しかし、ここに宮崎さんが置いたコピーが吊るしてありました。歩き地図の変更らしいのですが、暗くて読めません。えぇーい自分を信じて神様、大師さんを信じて進むしかない。山に入って行きました。

 サッサッー。登り始めます。足を踏みしめ杖をしっかり突いて目を大きく開いて暗闇の中で見える物は全て見落とさ無いぞ、との思いで・・。暗闇の中で唯一の道標は木にぷら下げられた小さな遍路礼です。他の物は見えなくてもそれはぼーっとかすかに揺れて光っている様に見えるのです。それだけを頼りに一歩一歩と進みます。何にも考えません。自分自身と私を導いて下さっている全ての方達、物達を信じて・・・一歩一歩、・・一歩一歩・・・杖でぶら下がっている札をつついてそれと確かめては又一歩一歩・・・・・・此処で落ちたら皆に迷惑かけるし、春美しっかりはるみシッカリ。

 アッ!礼が無くなりました。ジーツと見据えます。道はあちらにもこちらにも有る様に見えます。今来た方を振り返りその延長上の方向に進んでみます。大分進んでも札が見えません。今まで一定の間隔で札が吊るしてあったのに、ぼーぜんとして又辺りを見渡します。ここで山全体が私を包み込み暗闇が襲って来ます。初めて(怖い!)と思いました。
「神様ー大師さまー京子ーきょうこぉぉぉぉ」(引き返そうか、一歩も動かず夜明けを待とうか・・・下手に動いて迷ったらどうしょう・・・)私はこの場所で三回行ったり来たりを繰り返した後、先達を信じてもう少し前に進んでみる事にしました。一歩一歩・・・ザクッザクッ・・・すると(有ったー有りましたー礼が有ったのです。やったぁーー)涙でクシヤクシヤになっていた顔にもやっと笑顔が戻って今度は黙黙と進みます。

 札はちゃんと方向を示してくれています。今まで千キロ歩いて来てずーーっと先達が残してくれた道標に助けられて歩いてきました。でもこの時程有り難いと心の底の底から感謝した事はなかったでしょう。そして一枚の札が一人の無謀な女遍路を助けたとは吊るした人の知るよしもない事でした。(後に石の道標を歩き遍路だけが見る事の出来る山の奥深くに徳島、高知、愛媛、香川に一つづつ建立させて頂いたのもこの時の気持ちがさせたものです。)

 やっと山の遍路道を抜けて道に出たのは6時25分、そこには66番雲辺寺まで2キロ半の遍路札が私の行く方向をしっかりと示していました。私の安心の笑顔とともに夜もしらじらと明けてきました。元気に歩きます。

 7時10分雲辺寺到着!「はるばると雲のほとりの寺に来て、月日をいまはふもとにぞ見る」・・・札所の中で一番雲に近い所に位置しているのがこのお寺の自慢らしく絵に書いて示されてありました。・・・8時出発します。

 とことことこトコトコ9時、67番大興寺まで6、4キロの遍路山道で麓の町や海を見下ろして写真を撮ります。黙黙黙10時15分しんどくて道に座り込みます。後3、6キロ・・とことこトコトコ11時15分大興寺に着きました。ここの山門の前で腰掛けて写して頂いた写真はお気に入りで平成九年の年賀状に使いました。

 写真を撮って頂くのは案外難しいのです(人のいない所はまったくいないし、とてつもなくお年寄りだとか。)躊躇せずに「すみませーんすみませんあのー写真撮ってくださーい」と頼まないとダメなんです。

 すぐに出発します。(考えます。69番観音寺を3時に発たないと70番本山寺に納経の時間の5時までに着かないわ。本山寺を打って本山駅で打ち止めの予定にしているのだから・・・でも、相当急がないと無理だなぁー・・)11時50分、急がないと。

 黙黙黙とことこ12時35分豊田小学枚通過、この前でおばあさん二人が百円づつお接待して下さいました。有り難うございますその後、本場のうどん屋さんに入ると歩き遍路さんには百円お接待していますと百円引いて下さいました。でもこのうどんは確か三百円位だったので私は二百円で美味しいてんこもりのうどんを食べた事になるのです。又後からお饅頭を買いましたら歩き遍路さんには一つお接待していますと言われてお饅頭を頂きました。「ゲップ!」ハハハ本当に申し訳ない程有り難い事でございます。

 ひょこひょこ1時35分どうしても足が痛くなって田圃の中に入って行って足をストレッチします。あぐらをかいたり、お客さん座りをしてみたりアキレス腱を伸ばしてみたり・・・痛いなぁーひょこひょこ・・3時までに・・・3時までに観音寺に・・・

 68番神恵寺と69番観音寺は同じ境内にあります。この部分の歩き地図は分かりにくいので私は人に聞きながら歩きました。しかしこれが間違いだったのです。私は
「観音寺さんはどっちですか?」と聞きながら歩いたのです。着いたのはなんと観音寺の駅だったのです。(しまったぁ−・・・これはやばいぞ此処で道を間違っていたらもうダメかも・・)自転車に乗ったおばさんに
「あのーすみませーん、私観音寺さんに行きたいのですが人に聞きながら来ましたらJR観音寺の駅に着いてしまいました。先をとても急いでるのですが・・」悲しそうな顔で訴えたのだと思います。おばさんは自転車を下りて分かりやすい所まで付いて来て下さいました。この人がいなかったら町の中をグルグルしてた事でしょう。そして68番と69番の納経所が同じ所だった事は、とてもラッキーでした。

 ここで急におなかが痛くなりトイレに駆け込みました。この事も歩いている途中だったら泣いてしまった事でしょう。手早く御参りを済ませて先を急ぎます。3時半出発、疲れた身体にムチ打って(絶対に道を間違ってはダメだわ)とことこタッタッー朝4時から歩いているのです。どこにパワーがあるのかと思いますが最後の日の気力です。

 遍路札を見つけてその道を選びます。道が二手に分かれています(ワッ!どうしょう・・・)しかしジョギングのお兄さんが走って来るではありませんか
「本山寺はこのへんろ道を真っ直ぐですよ」
「ありがとうございます」力の限り足を進めます。タッタッタッーハッハッ!(なんと言う事だろう本当ならお寺と駅とを間違った所で間に合わなかったはずだ、神様は大師さんはちゃんと私を見守って下さっているのだわ、自転車のおばさんに会わして、此処だけ札所を一緒にして、ジョギングのお兄さんに会わして・・込み上げてくる感謝の気持ちを素直にかみしめました。ありがとう)4時半70番本山寺到着!(てやんでぇー、やれば出来る春美さん)

 今回も無事に予定通り歩けた事は本当に感謝と共に満足です。最後の御参りをしてひときわ美しい風格のある五重塔を写します。芝生の上でゆっくりとストレッチをします。「ふぅぅぅぅーー・・・・・」やったぁぁぁぁーー最高です。ゆっくり歩いて5時30分本山駅に着きました。打ち止めのお祈りをして写真を撮ります。次はこの駅から打ち始めです。本山駅から観音寺駅へ・・・しおかぜ18号に乗り岡山へ・・・ひかり62号に乗り新大阪へ・・・明日から仕事です。

 この手記を書いている時、平成9年3月12日西幸重雄さん(7年10月23日53番円明寺で出会い私の重いリュックを二日に渡って運んで下さった方)が、はるばる愛媛から曼陀羅まで来て下さり感激しました。一朝一会・・・人とのご縁・・嬉しいです

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