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女3人お遍路日記

第11回 70番本山寺から83番一宮寺まで

平成9年5月4日から5月7日3泊4日80キロ


「涅槃の道場」

 今回は70番本山寺から1キロ歩いたJR本山駅を打ち始めとし、83番一宮寺を打ち終えて琴電一宮駅で打ち止めの80キロの遍路旅でした。今回の祈願も先祖供養と阪神大震災の犠牲になった姪の中北百合の平安供養、そして・・・私の娘と孫の本当にささやかな幸せを願って歩かせて頂きました。

 平成9年5月3日、12時45分発ひかり143号で新大阪を発ち岡山へ・・・そして四国へ・・・香川県三豊都山本町河内にある「百然の命」の四国本部へ・・・年に一度の大護摩供に参加する為に義母と娘と孫と揃ってやって来ました。

 第10回を迎えた大護摩供には、二万五千本の祈願の護摩木が集まり結界の中に厳かにお焚き上げの時を待って並んでいました。午後6時開始・・・護摩段点火・・・雨の中でも勢いよく燃え上がった炎は聖地の天高くどこまでもどこまでも登って行きました。全員の読経が流れる中、護摩段の中に投げ入れられていく護摩木は心願成就間違いなしのごとく一本残らずきれいに燃えつきて、私達一人一人の淘胸深くに感動と感謝の心で一杯に満たしていただきました。

 その後、護摩段が崩され平らにされてまだ赤々と燃えている護摩木の上を火渡り開始です。塩で足を清めて渡ります。、義母は72才なので少厄に当たりますので一番に渡る事になりました。いざ、その前に歩み出ると流石に義母は怖がりあとずさりします。(いゃーこれは熱そうやなぁー)と私も思いましたが・・・義母の肩に手をおいて「さあーお母さん大丈夫よ!」と励まします。義母も覚悟を決めてとッとッと無事に渡り私も渡りました。(今年の火は本当に熱くて火傷した人も結溝いたようです)

「滝行」

 翌4日7時起床、今日は楽しみの滝行です。年に一度、滝に打たれるのってとっても気持ちが良くって楽しみなんですルン。「轟の滝」で行います。随分と山奥に車で入りその後は歩いて登りますが道幅は狭くて急な傾斜になっていますので孫は男の人に抱いてもらって足の弱い義母は私がしっかりと守ります。

 結界の張られた滝場では龍神様のご真言の読経が流れる中一人一人が順番に滝に打たれます。娘の番です。孫をしっかりと胸に抱き滝に打たれる娘の姿を見て私の目からは涙が溢れ頬を伝います。(この一年、娘は人生の何年分もの辛い経験をして乗り越えたのですから・・・滝よ、娘と孫の不浄な物を全てすべて流し清めて下さい。お願いします)

 私の番が来て水の中に入ります。水は思ったより冷たくじっとしていると痺れてきます。数歩ヨロッと進んで滝場に登り石の上に立ってしっかりと足を踏ん張り、ここで「えいッ!」と気合を入れて龍神様のご真言を八回唱えます。最後に又「えいーッ!」と声を出して石から下ります。身体は最初は冷たいのですが、後からはなんだかとっても爽やかで気持ちがいいのです。

 義母は足が悪いので滝には打たれずみそぎをしていただきとても有り難がって喜んでいました。私もここまで頑張って登って来た義母を見て本当に嬉しかったです。咋夜の護摩焚き、そして火渡り、今日のみそぎと72才の義母にとって大変な事だったと思いますが私達二人にとって本当に楽しく有り難い思い出になり、来年も来れたらいいね、来年は滝に打たれましょうねと話しました。

 滝行の後は「環の湯」で皆お風呂に入り昼食を取ります。でも私はそんな時間はありません。今からお遍路の旅に出るのです。今回の遍路は前回の打ち止めと大護摩供の場所が偶然にも近い所だったので、遍路の予定を大護摩供の日と合わせて立てたのです大護摩、滝行の後に遍路に出られる事をどれ程楽しみにしていた事でしょう。この事はきっと神様のお計らいだと信じて感謝してこの日を待ち望んでいました。

 トイレで濡れた髪を手早く拭いて三つ編みにします。白装束に着替え頭にタオル(1番霊山寺で買ったものでもう7年頭に巻いて遍路を続けています。)を巻いて足には脚半を締めます。菅笠と金剛杖を持ってサッソウーと食堂に入って行くと義母も娘も孫もクタァーーツと疲れた様子で座っています。

 「由里ちゃん達はお風呂に入らへんの?」
「もうー入らへんー、しんどいーー。ママは今から歩くのー元気やねぇー信じられへんわ、よぅーやるねぇー。まぁ頑張って!」

 私は名物のうどんをたらふく食べます。いっぱい食べます。食欲もりもりです。今から遍路に発つのが楽しみなんですものハハハ娘達とはここで分かれて、私と徳島の親戚に用事のある義母は一緒に本山駅に向かいます。前回の打ち止めの懐かしい駅です。ここで義母と記念写真を撮りましたが遍路旅発ち前のこんな写真は二度と撮れない大切な一枚になりました。

「71番弥谷寺」

 打ち始めのお祈りを済ませ2時20分出発です。さぁー!サッサッサッーとことことこさッさッ、2キロ位歩いた所で軽自動車が止まりおばさんが「私もお寺参りが好きなのよ」と言ってなんと千円もお接待して下さいました。「有り舞うございます」ニコ。黙黙黙・・・3時30分高瀬警察署通過・・・とことことこ・・・3時45分高瀬農協通過・・・めざすは71番弥谷寺、本山駅から12キロ、納経の5時に間に合う為に3時間弱で歩くには休息無のフルスピードで頑張らなければなりません。

 しかし一日目はだいたい無理が利くのです。(3泊か4泊の区切り遍路の私の経験で2日日は一番しんどいです。)たッたッたッーダァーーー!4時30分入り口に到着!ソレッ、階投を登ります。石段と坂道をくり返し上がります、延々と石段が続くので下りて来る人に
「あのぉーまだですかぁー?」「まだまだですよーまだ半分くらいしか来ていませんよ、頑張って下さい。」(えぇーちょっと冗談じゃないわよ、これで5時過ぎちゃったらもともこもなくなっちゃう)ハーハーヒーヒーフーフーひいー!やっと辿り着いたら私の時計は4時50分ホッ 納経所の時計はぅん?なんで?5時10分、深く考えていられへんまずは先に納経を済ませてからお参りします。

 私が出るとすぐに重そうな鉄の扉がビシッっと閉められました。危機一髪ふぅー。(私の時計はニコちゃんマークの安物ですが旅発ち前に大阪駅で娘が買ってくれたばかりの物で狂うはずは無いのですがその後も半時間一時間と狂うので仕舞いに腹が立って来てリュックの中にしまってしまい後は目覚まし時計をウエストポーチに入れて使いましたが、これが嵩張って邪魔でじゃまで・・・もぉーぷんぷん)しかし、だいたいが物事を良い方に解釈する私は時計が遅れていたおかげで(間に合うきっと間に合う)と頑張って歩けて何とか納経の時間に自分では間に合ったと思って駆け込んでいるので、これも大師さんのお計らいだと考えて新しい時計の事は腹が立ちませんでした。我ながらおもろい奴だとは思いますが・・・

 ふふふこの時計は続きがあって、孫のおもちゃにしょうと考えて2才の孫に「奈実ちゃんあぁーげよ」「奈実、いーらない。」ガク!

 私が本堂はどっちかなと思っているとふっと何処から現れたのか歩き遍路らしい男の人が「本堂はこの上ですよ」と教えてくれました。本堂の階投に腰掛けて遥か下に街を眺めながら今日はここで打ち止めにしょうかなぁーと考えていました。今日の宿泊は護摩焚きの行われた山本町の「百然の命」の本部です。一力月以上前に民宿の予約を入れたのですが連休と重なって何処も満室で断られました。私は千キロも歩いて来たのだし一度くらい野宿の経験をしてもいいかナと考えました。

「野宿ー?」

 気侯も良いし地図を見ると、数キロ先には72番、73番のお寺も有る様だし何処かの境内で寝かせて頂こう、歩き遍路だしもしかしたら部屋の隅の方でも使わせて頂けるかもしれないしと考えて、よし!一日目は「野宿」と意気込んでいたのですか・・・「自然の命」の会長さんにこの事を話ましたら最初は「うん、いいよ」と言われたのですが後日「其処は場所があまり良くない所なのでタクシーで本部に引き返し次の日も又タクシーで同じ場所まで行って歩きなさい」と言われました。私は心の中で(一回位は野宿もしたかったのになぁ)と思った瞬間、「ねッ!森さん分かったの本部で泊まるんだよ、ちゃんと連絡入れておくからね絶対に野宿なんかしたらダメだよ」
「はぁーい分かりました」へへへ・・・しかし、本当に会長さんのおっしゃる通りのお化けの出そうな鬱蒼たる遍路山道だったのです。

 御参りを済ませた私は入り口に在った茶店で何か食べようと思い階段を駆け下ります。(どうか開いてますように、開いててねぇー)タッタッタッー(やったぁー開いてたぁー)入って行くとさっき本堂を教えてくれたお遍路さんがいました。しかも美味しそうな柏餅を食べています。
「すみませーん私も柏餅二つとお茶くださぁーい」
「二つですか、内のは大きいですよ」
「えぇいいです」またこれが美味しいのなんのってうん!もぉー最高なの、もう一度柏餅を食べに行きたいくらいです。ハハハ

 ここは「俳句茶屋」と言って店中に俳句の色紙が貼ってありました。気のいいご夫婦で(後から聞くとご夫婦ではないそうです)シヤキシヤキの働き者の奥さんと優しそうな主人で対象的なお二人の様子がとてもユーモラスでした。ふと天井を見上げると、わぉ其処にも俳句がぎっしりと、

「地蔵尊 うとうとうとと 花ぐもり」
「見上げたる 観音像と 夏木立」紙が全部黄ばんでる!もう後一つ二つ・・・
「山門を 去るに一礼 遍路たち」
「吐息つき 石段のぼる 秋の雨」・・・

 (長い階投だったなぁー)山本町までタクシーで戻ると言うと「そりゃ高くつく、うちで泊まりなさい」と言われます。もし私が民宿の予約をしていたならこのお言葉に甘えた事でしょう。しかし私の今日の宿泊先は「自然の命」の四国本部、会長さんが手配して下さったお宿なのです会長さんの何気ない一言、一挙一動が後になってとても重要な意味を持つものであると言う事は、ここ数年で理論立てては言えないのですが身体の神髄の所では分かっている私なのです。絶対に本部に戻らなければいけないのです。そうでなくても・・・・・徳島から遍路を初めて六百キロ、八百キロと歩く内に香川まで来たら「自然の命」の四国本部に寄れたらいいなとずっと願って歩いて来たのです。それが会長さんのお声がかりで泊まれると言う事は本当にほんとうに有り難い事だと喜んで発って来たのですもの。

 さっきめお遍路さんの他にも男の子二人連れの親子四人のお遍路さんが今日は泊まられる様子で夕飯の用意の途中らしかったので
「有り難うございます。でも知り合いの者が持っていますので、でも折角ですから夕飯をここで戴きます。」
「ゆっくり食べて行きなさい、後からタクシーを下まで呼んであげるから」私は一安心してゆっくりと腰を降ろしました。ここの夕飯はとても美味しいのですが一人前が三人分位の量が有ってもぉー大変、うぅーーゲブ!。

 隣に座って食べている本堂を教えてくれたお遍路さんは清水康伸さんです。私と同じ区切り歩き遍路さんで、なんと私の店「曼陀羅」には歩いて来れる近さにお住まいと言う事でお互いにびっくりしてしまいました。32才の好青年で再会を約束しました。後日早速にご来店下さりとても嬉しかったです。

 親子連れのお遍路さん達は子供さん達が小学生で初めての試みだそうで無理じいはしたくないと仰っていました。(私はどんな形にしろ親子で歩き遍路の一歩を踏み出されると言う事はなんと素晴らしい事だろうと思いました。この子達は何年かけても両親と歩き始めた遍路を結願するだろうと思いました。私が歩いて来たあの山、あの川、あの浜、あの杉林、あの遍路道この子達が両覿と共に、又は一人で歩くのだろうと思うだけで嬉しくなってしまう私なのです。)

 さくらタクシーが迎えに来てくれて8時に俳句茶屋を出発、清水さんがわざわざ外まで見送りに出て下さって恐縮しました。気のいい運転手さんで「友人が定年した後に歩き遍路に出ました。現役の頃、ずっとお客様を乗せてお寺参りをして来て定年後歩いてみようと思ったらしいです。」とお話されるので「歩き遍路の私を今日乗せてその話をされたのも何かのご縁だから貴方もいつの日か歩いて下さいよー」と笑いながら詰ました。「自然の命」に8時30分到着、明朝のお迎えを約束して車を下りました。

 神殿に入り遍路行の無事安全祈願と「四国本部」に一泊させて頂く事への感謝のお祈りを静かに心ゆくまでしました。昨日の護摩焚きや今日の滝行がずーっと前の事の様に感じられます。滝行の後午後から12キロ歩いて今ここにいるのが不思議です。お風呂を頂いて散歩に出ました。本部は田圃の中に在るので畦道を歩きます。夜空を見上げると満天の星です。
「奇麗だなぁー・・・あッ!北斗七星だ、すごぉぉぉーい」都会ではこんなに星をみる事はありません。しばらく感動してひたっていました。(私って本当に幸せ者だなぁーここまで遍路して来て念願の「自然の命四国本部」に泊まらせて頂いて親子で護摩焚き、滝行が出来て、きっときっと神様やご先祖様に守って頂いているのだわ・・・・)と一人で納得、感謝する私でした。

 翌5日6時起床!気分爽快!朝の御参りをゆっくり、丁寧にします。こんなに落ち着いた気持ちでお祈りをした事は無かった様に思います。日頃、如何に簡単に済ませているかと言う証拠ですね。ヘヘヘ本部の方達は疲れてお休みなのでそーっと出発します。昨夜大護摩の灰を頂こうかなと思って止めたのですが今朝はやっぱり頂こうと(大護摩の灰を頂いてなんでパチが当たるものか)自分で納得させて紙に包みリュックに入れて帰ってからは店に置いてある祖父の形見の火鉢の中に入れました。(これでよし!)

「72番曼陀羅寺」

 約束通りにタクシーが来ました。(あれッ?昨日の人と違う、淋しいなぁー)咋夜の「俳句茶屋」に着きました。さぁーすぐに、出発!いきなり遍路道です。タッタッタツー黙黙黙たたたダーとことことこ道標の順に歩いて行くとあれッ73番に着いちゃった。折角着いたのだから御参りすればいいのに私ったらバカみたいに74番の方角を確かめればいいものを。こういう所が方向オンチのキワメツケ。逆戻りして72番に戻ります。

 72番曼陀羅寺8時50分着。すると進行方南に74番の矢印が???ゲェー!と言う事は・・・私はさっき折角73番まで行っていたのに又戻ってそして又ここまで歩かなければならないと言う事で、えぇー(春美のバカ野郎!なんで73番に着いた時にもっとよく考えなかったのよぅ本当にバーちゃうか、そういえばこの遍路の計画を随分前に立てた時に此処だけは逆打ちだって宮崎さんの説捌こ書いてあったじゃーないの・・・あーあ・・クソぉー!)ぷー!ぷんぷんとことことこ

 9時15分73番出釈迦寺着プツプツとことことこ10時15分74番甲山寺着とことことこ・・。(帰って来てから清水さんと話していて出釈迦寺から1キロ山に入ると、弘法大師七才の時、「我もしの佛の道を得て衆生済度の願満たば救い給へ意願契はぬなれば命失うとも悔やまず」と捨身の修行をされ釈迦如来の御加護を賜ったと言う。出釈迦寺の寺号が生じた由緒ある番外霊場「捨身ケ嶽禅定」に行かなかった事をとても悔やみました。

 歩いているその時の私の気持ちと言うのはいつも前に前にと急いでいるのです。足も痛いのでどうしても寄り道が辛く思うのです。)とことことこ10時15分74番甲山寺着。とことことこイャーついにやって来ましたねぇー。噂の日本一の固い煎餅屋に到着!噂の煎餅屋を曲がると75番善通寺到着。

 ここは弘法大師生誕の地で、高野山、東寺と共に弘法大師三大霊場の一つです。境内は約10万平方メートルと言う広大なもので東院(伽藍)と西院(誕生院)の二つに分かれています。東院正門の南大門を入ると正面の金堂は7間4面の堂々たる建物で右手に45メートルの五重塔がそびえています。この塔は実に立派で私も何とか綺麗に写そうと色々な方向からカメラを覗き込みました。出来上がりはまァまァでした。左手の楠は幹が10メートルを越す老木で樹齢千年を越え、大師誕生の頃からあったと伝えられていて注連縄が飾ってあります。

 納経を終えてリュックをまとめていると、さっきからこちらを見ていた女の人が声を掛けてこられました。
「あのー貴方は昨日の午後、高瀬町を歩いてられませんでしたか?」
「はい、歩いてました。」
「そうでしょう、私達は車の中から歩き遍路さんを何人か見ました。その中でも女の人だったのでよく覚えているのです。大変ですねぇー頑張って下さい。」 「はい、有り難うございます。」何日もかけて見て回りたい善通寺に心残して出発です。

 歩き始めます。とことことこ、とことこ道路に毛虫がいっぱい歩いています。踏み潰されているのも沢山います。私は小さい時から毛虫が大嫌いですが遍路をしていると、そういうものにも憐れみの情が湧いてくるから不思議です。又、畦道や家の垣根の所に植わっている花は星野富弘さんの描かれる花達そのものです。(星野さんは1946年群馬県勢多都東村に生まれ、体育教師として指導中頚髄損傷で手足の自由を失われます。その後口に筆をくわえて文字や花の絵を描かれます。生かされている事への感謝と祈りを自然の植物に寄せて描く詩画や随筆は日本はもとより、世界の人々にも愛され感動の環が広がっています。)

 四国の道を歩いていると詩画集に描かれてあった花を沢山見つけます。(あッ!この花だ、この草だー。わぁー似ているゃん、上手いやん)その都度に心が和み星野さんの故郷も勢多都東村と言うくらいだからきっと四国の村とも似ているんだろうなぁとニヤニヤ思いながら歩く春美さんでした。

「76番金倉寺」

 とことことこ12時30分76番金倉寺到着。足痛いイタイ!歩き遍路の男の人に本堂を背に座り込んで写して頂きました。とことことこ、さっきのお遍路さんの後を追う様にして歩きます。黙黙黙とことこ(うぅー足痛いクソッ!早いなぁー・・・)ひょこひょこひょこくあーあもうーダメ)
「すみませーん私はここで休みまーす」と一声かけてうどん屋に入り休息!1時35分冷やしうどんの美味しい事、あーあおいしい・・・・

 77番道隆寺までもうほんの少しで着くはずです。とことことこ3時・・・おしりが摩れて痛い、足もむっちゃイタイ・・・3時30分塩屋橋通過・・・ひょこひょこひょこ・・・3時45分ビジネスホテルさくま到着ドーッしんどぅー・・・。食事は付いてなくて近くの商店街の寿司屋に入りました。うん満足、上手い。夜は色々と悩んだ末マッサージの贅沢を自分に与えました。遍路と言う修行の観点から見ると不達慎に思えますが、春美にとって遍路は仕事を離れ息抜きの旅であり自分を見つめ又リフレッシュの旅でもあると言う観点から見ると良い訳でこういう時は後者を選ぶちゃっかり者の私なのです。ヘヘへ

 このマッサージさんは来てピックリ!揉んでもらって又またオドロキ!若いお兄さんでとっても上手です。
「あのーあなたはもしかしたら接骨院の先生ではないですか?」「はい、そうです」くやっぱりねぇー納得です。)私はとてもとてもとても得した気分で最高に満足でした。なんせプロの先生に1時間も揉でもらった訳ですからね!ニッコリ

 翌6日6時起床、7時出発。よし!ファイト!黙黙黙タッタッター7時50分78番郷照寺到着。下でおじいさんがお手製のおはぎを売っていましたのでワクワクして買って御参りをすませて境内に座り込んで食べましたルン!出発!

「79番高照院天皇寺」

 黙黙黙とことことこ10時10分79番高照院天皇寺到着。ここには番外霊場「八十場の水」があります。日本武尊ゆかりの八十場(矢蘇場)の泉は今もコンコンと清水が湧いている。日本武尊は悪魚退治のためにこの地にやってきた時、悪魚の毒で八十八人の兵と共に倒れてしまう。その時横潮明神が泉の水を持って現れそれを飲むと日本武尊兵達は回復しました。そこで、この泉から汲まれた水を人々は「八十八の水」「八十場の水」と呼ぷ様になったのです。又、保元の乱で讃岐に流罪となった崇徳天皇は長寛二年八月讃岐の国府における歌会に出席する途次、ここで亡くなられました。真の暑い時期であったため遺骸を八十八の水につけて腐敗を防ぎ、寺に安置しておき京都からの令旨を待ちました。そして令旨を受けると白峰山で荼毘に付されました。このため寺名が天皇寺となったと伝えられています。

 私は八十八の泉の近くにある八十八名物、清水足さんの「ところてん」を黒みつで二杯も食べてゴキゲンです。そこの立て札に
「八十場の水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ」と書いてありました。歩き始めます。とことことこヒョコヒョコ・・・おじさんの「乗って行きなさい」との二度の申し出をお断りして歩きます。ひょこひょこ・・・11時30分公園で休息。足の裏がヒリヒリズキズキ痛くて痛くて・・・休み休みヒョコヒョ

コ・・・・・・  1時30分80番国分寺到着。このお寺で私は丹羽善久さんの書かれた「ぜんきゅうの般若心経」という本を見つけました。この本をバラバラと捲ると一ページに大きな墨字で般若心経が少しずつ書かれています。そして又一ページずつにお坊さんが墨で書いてありどのページのお坊さんも愛嬌があって口を大きく開けてお経を唱え合掌しています。もぅー可愛くて私の目が輝いてくるのが分かります。欲しくて欲しくてたまりません。しかし本は重たい、リュックに入れると重たい!出版社をメモします。

 (株)成星出飯「ぜんきゅうの般若心経」です。
帰って来てから早速購入して大好きな人達にもプレゼントして大変喜ばれました。

 私は御参りの際にはいつも「祈りの言葉」を唱えていましたので何年もお遍路をしているというのに般若心経を覚えていません。本当の所は難しくて敬遠していたのですがヘヘへ。しかし!なんとこの本を買ってからは意味も理解できましたしお経も三週間で覚えてしまったのです。凄いでしょう・・・ふふふ。結局の所、何でも人はやる気次第と言う事なんでしょうね。ははは

 「往き、往てて、彼岸にたどり着きし者よ。誠の真実に到達せし者よ。何時の悟りに幸いあれ。般若心経」歩きはじめます。とっことっこヒコヒコ・・2時45分通称へんろころがしの墓の中にいます。81番白峰寺まで後6キロです。5時の納経に間に合わなければ・・・

「ひーまにあえへーん」

 ハーハーヒィーヒィー5時までには・・ギリギリの線です・・・はァーはァーちくしょうーTシャツは汗でぐっしょり濡れて肌にひっつきます。山の中にもベンチが置いてあります。「お遍路さんおすわんなさい」って!座って耳と心を澄ますと「ホーホケキョ・・・」と鳥の声が、爽やかな頬を撫でて行く風が私を励ましてくれます。(がんばれ)ハぁーハぁーひいーひいーあぁーもぅーダメー・・・座り込んでリュックを下ろしてタオルで顔を覆いその上に倒れ込みます。涙が出てきて(もぉーイヤだぁー・・・)ここは遍路山道、誰も通らぬへんろみち・・・(春美、ガンバレ・・)

 ふと、泣き顔を空に向けるとそこに見つけた物は、ハハハ・・・木に結ばれた「同行二人」の道標です。いったい何度この札に助けられ励まされて来た事でしょう。よっこらしょっと・・・よいしょヨイショ3時40分・・何度もなんどもへたり込みます。間に合うだろうか・・胸が苦しくて吐きそうだ・・・道標の立て札がありました。

 そこには81番白峰寺より82番根香寺の方が少し近い様に書いてあり私は間に合う82番の方に先に行こうかしらと思いはじめました。しかし全くの逆方向ですから逆戻りで帰って来なければ81番白峰寺の近くのお宿を予約しているのでとても無駄な事になるのです。じーっと考えているとダーッと私の来た方向から一人の男遍路さんが現れました。彼は絶対81番から行くべきだと言うが早いかもう歩き始めていました。私は慌てて彼の後ろを追い掛けます。早いのなんのってもぉー大変な早歩きです。私のどこにそんな力が残っていたのか彼に引っ張られて進みます。

 「あのー5時までに間に合いますかねぇー」
「なんとか間に合うでしょう頑張りましょう」タッタッタッータッタッダァーと彼の足、とことことこハッハッハーと私の足、ぐんぐん引っ張られ引き離されます。しかし彼に付いていけたら間に合うはずです。なんとか彼の背中を見失うまいと頑張りますがとうとう見失ってしまいそうです。私は最後の手投として・・
「すいませーん、女の遍路が頑張って走っているからどうぞ納経所を開けといてと伝えてくださぁーい」彼は手を上げて答えました。

 私はホッとしました。足は痛くていたくてヨタヨタしていますが心はとても幸せでした。きっと彼は私の事を伝えてくれるはずだひょっこヒヨッコ・・・もう少しもうすこし・・・彼の姿が戻って来ました。
「大丈夫だからね、ちゃんと伝えておいたからね、荷物を貸しなさい、先に荷物を持って行ってあげるから・・・」
「ありがとうございます。ありがとうございます・・・・・」そして犬を連れた女の人に納経所はそっちよ、と教えられやっと着いたのは5時丁度でした。

 彼の姿はもう既に見えませんでした。私はいつも「もう、これまでか!」という時に不思議な程、色々な事に救われて来ました。この時の遍路道からいきなり現れたお遍路さんの事は私にとっては狩場明神様みたいだナとふっと思いました。高野山にまつわる伝説です・・・・・

 大師が入唐留学を終え明州の港から帰国の途につかれようとした際、携えていた三鈷を空に投げて伽藍の建立の地を示したまえと念じました。大師は帰国してこの三鈷の行方を求め今の大和の宇智都に入られたとき黒と白の二頭の犬を連れた猟師に会いました。そして「私はあなたの投げた三鈷の落ちた所を知っている、この二匹の犬に案内させよう」と言って姿を消しました。大師は犬の案内によって山中深く進むと忽然と幽邃な台地が開けました。そしてそこの一本の松の木に明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見てこの地を聖地として開く事を決意されたそうです。その猟師が狩場明神であったと言われます。

 御参りを済ませた私は今夜のお宿、坂出簡保保養センターを目指します。たったの1キロですかんたんカンタン・・・しかし・・お寺の前の案内板は簡単すぎて分かりません。地図を見ても余りに近くてよく分かりません。少し歩くとはっきりと道はふたてに分かれています。(うぅーん囲ったなぁー・・・アッ車がやって来たぞ・・・)

「あのうーすみません、保養センターに行きたいのですがふたてに分かれている道は上の方ですか下の方ですか?」
「下の方だと思いますが・・・乗って行かれますか」(私は明日どうせここまで戻って今日歩いて来た遍路道を戻って82番に行くのだからここは乗せてもらってもいいんだわ)「はーい、乗せて下さい。有り難うございます。」しかし・・・数キロ走っても保養センターは見えてきません。
「おかしいなぁー道は上の方だったかなぁー」彼らも仕事でこちらに来てはるので土地の人ではないのです。大阪の方と言う事です。
「えぇーもし上の道だとしたら私がもし歩いていたとしたら私、泣いちゃいますよー」「「そうですよねー、しかしこれはどうも道を間違えている様ですから戻りましょう・・・・」そして戻ってさっきの道を上の方に走るとすぐに保養センターの看板が見えました。

 私は心の底から乗って良かったと思いました乗せて下さった方の娘さんが私の家の前の夙川学園に通ってられると言う事でした。お礼を言ってさよならしました。保養センターは名前のごとく簡保のセンターでお年寄りの方が沢山来られていました。

「82香根香寺」

 翌7日早い目に玄関を開けて頂いて朝食抜きで出発です。朝はすがすがしくて本当に気持ちいいです。夕方の遍路はクタクタで朝の遍路は颯爽としています。タッタッタッー81番に戻って来ました。昨日の遍路道を戻って82香根香寺に向かいます。今日の予定は83番一宮寺を打って琴電一宮駅で打ち止め大阪に帰り、そのままお店に入るという予定です。

 がんばるぞー!時計を見ると6時15分。遍路道をザッザッザッ。立て札が目に付きました。「閼伽井と丁石」と書いてあり心が動いたので書きとめました。「閼伽井とは神仏に捧げる水の湧く井戸の事です。この附近は白峰寺の寺領でこの井戸の事は閼伽井縁起の中に記述されています。水は枯れることなく、遠い昔からここを通るお遍路さんはこの冷水で喉を潤し手を清めた事でしょう。

 只一人山道を歩くお遍路さんにとって頼りになったのが丁石です。これは岩石に次の札所までの丁数を刻んだ船型の石地です。丁石は江戸時代に立てられ五色台山上に数多く残っています。これらの丁石は当時の人々がお遍路さんの道中の安全を祈願して立てたものです。ところが丁石は五色台山上には分布しないカコウ岩で作られています。おそらく庵治等の石切り場からここへ運んで来たのでしょう。信仰心の熱かった昔の人達の苦労がしのばれます。

 私にとって、船型の仏様は山の中の友達ですふふふ立て札を読んでなんだか前より親しくなった石仏さん達に挨拶しながら黙黙黙とことことこ7時20分「みち草」さんで休息。すぐに出発・・・とことことこはッはッはッ・・・7時50分82番根香寺到着。元気げんきな春美さんです。昔から女の人は子を生む苦しさを忘れると言いますが、私も昨日はへんろころがしで泣いていたのに今日はもうケロリとしていますハハハ・・

 納経所の前で休んでいると学生らしい男の歩き遍路が二人はァーはァーと息をきらして死にそうに階段を登って来ました。多分、野宿をしながらの遍路なのでしょうとてもくたびれていました。彼らはお金もあまり無いのでしょう、納経帳もお軸も無く神様の御姿だけを頂いている様です。そしてそのまま彼らは旅立って行きました。???あれーーーあの子達って・・・??本堂も大師堂も御参りしなかったよなぁー・・・せっかくお遍路してんのにもったいないなぁー・・・

 しかし、私はだんだんと腹が立って来ました。この事は帰ってからもおさまらずイライラして自分自身も悔しくて後悔しています。なぜって?こう、言わなかった事がです。「「ちょっとーあんたらー待てぇ!若いのに歩いてお遍路しているのはとっても偉いわよーでもねぇお寺にやっと辿り着いて神様にも大師様にも御参りしないで帰るって、それってどう言うことー。なに考えてんのよー、御姿だけ集めてんの。信仰心があろうがなかろうが本堂と大師堂に一礼したって損は無かろうが!不届き千万もええとこやー!」

 この子達がどういう考えで遍路をしているのかは知りませんが、いつの日か自分達の遍路が間違っていた事に気がつき愕然とする時が来るだろうと思いました。又それを教えてくれるのも遍路なのだと、そこまで思い到ってやっと自分に納得させました。

 8時30分お寺を出発。とことことこ・・・とっことっことこ10時30分鬼無小学校通過・・足痛いいたいイタイ・・・10時55分鬼無郵便局通過・・・ひょこひょこ痛いいたいイタイ12時高松工業専門学校前の喫茶店で休息。今日の予定は18キロ、朝の6時から6時間歩いている、えらい遅いなぁー本当ならもう着いてもえぇんちゃぅん・・この地図では一日目は3時間で12キロも歩いたというのに4日目の今日はもう既に6時間歩いていると言うのに全然お寺に着かないのなんでぇーーー??クスン・

「83番一宮寺」

 82香根香寺から83番一宮寺迄の道は本当にほんとうに遍路泣かせなのです。山の中では無く町の中なのですが迷って迷って道標がとても少なくてとてもとても分かりにくいのです。後で出会った男の遍路さんもとても苦労して何度も人に聞いたと仰っていました。私は一宮寺を打って琴平電鉄一宮駅を14時6分の電車に乗らなければなりません。こんな悠長な事をしていたら間に合わなくなります・急がなきゃ・・・

 たッたッはッはッとことこトコトコ下校途中の一宮小学校の生徒に聞きます
「ねぇーねぇ一宮寺はどっち?」
「えぇーとえぇーと分かりません」
「うん、もぉー」こうーなったら地図なんてなんの足しにもなんない、人に聞いて聞いてやっとお寺の門が見えました、走って走って1時20分到着!ふぅー・・・・1時35分出発・・・又走ります。ふッふッフーはッはッハーーー(あッ!駅が見えた、良かったぁー間に合いました。今回の遍路もなんとか間に合った!)

 ローカルな一宮駅を写真に撮り打ち止めのお祈りをして大根足の春美さんです。この電車に乗り高松へ、マリンライナーに乗り岡山へ15時48分着。16時2分発こだま378号に乗り大阪へそしてお風呂に入り何事も無かったかの様に(まさか朝の6時から山の中をお遍路してたなんて夢の様に)仕事します。

 「いらーしゃいませー、あのねぇーわたしねぇー今朝は四国をお遍路してたのよー。それでもぅー83番まで歩いたのよー、今度の秋のお遍路で満願なのよぉー、7年もかかったのよ偉いでしょ!」なーんて言いながらお客様のお相手をして頭の半分似上は眠っているママさんなのです。ハハハ終わり

 ○ 帰って来てから色々と反省してみました。まず計画の時は73番出釈迦寺と72番曼陀羅寺は逆打ちと宮崎さんの本に書いてあったのに実際に歩く時はその事を忘れて行ったり来たりと無駄をしたこと。

 ○ 帰って来て色々な資料に日を通すと「金毘羅は巡礼の数にあらずといえども、遍路の人当山に往詣せずといふ事なし」と記してあります。計画の時、往復13キロの遠回りと考えた私は無視しましたが後に色々と考えて後悔しました。いつの日か、捨身の修行をされ釈迦如来の御加護を賜った73番出釈迦寺奥の院「捨身ケ嶽禅定」と金毘羅の長い石段(町の中心部から本部まで785段、さらに奥社まで583段)に登って御参りしたいと心に刻み込みました。

 ○ 道しるべが分かりにくくて迷って困った件ですが、もし数メートル刻みに道標があったとしたらそれは遍路では無いのかも知れない。地図を見て人に聞いて悔んで困って行ったり来たり・・・時には草の中に埋もれている立てを捜してはホッ、ガードレールの隅の方に貼ってある少し汚れた丸くて小さい歩き遍路のシールを見つけてはニッコリしながら歩くのが遍路の神髄なのかも知れません。

 ○ 遍路とは宮崎建樹さん曰く、歩ける身体と時間とお金が要ります。この三つを満たせる人は沢山いらっしゃいます。しかし、その沢山の人が全て歩く訳ではありません.なぜでしょう・・・それは、いくら三条件を満たしていてもお大師さんから「おいでなさいよ」と招かれた人でなければできないんですよ。私は思うところあって先祖を調べました。それで少し分かった事は多分とても因縁深く業深いゆえに歩かされている様に思われるこの頃ですが、私はお遍路出来てとてもとても幸せです。いよいよ次回は結願ですが七年かかりました。八年目の春に高野山に御参りする予定です。楽しみです。


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